GV 留学・国際資格 情報館

私の歩む グローバル
     

今までに感じてきた世界観
先週約束した大学教育から得た教訓とその感想を語る前に、もう一つ鮮明に印象として残っている世界観について、触れてみたいと思います。
1945年8月の日本への原爆投下は人類史上最悪な結末を我々国民にもたらせましたが、子供心にも日進月歩で変化するその後の科学的や技術的な発展は、国々の威信や誇りを世界に発信し、人々に期待感や希望そして不安さえ抱かせたこともよく記憶しています。数年後には戦争からも徐々に立ち上がり、1960年代後半には日本でも飛躍的な生活の向上が始まったのだと考えています。
世界戦争は米ソの冷戦時代を生み、科学進歩の驚くべき時代の幕開けでした。旧ソ連はアメリカに追随して4年後の1949年には原爆実験に成功しますが、1945年の12月、アメリカでは広島原爆の約700倍もの威力がある水爆計算テストを世界初のデジタル電子計算機・エニアック(ENIAC)で終了していました。この計算機は幅約25メートル、高さ2.5メートル重量30トンで倉庫1個分のスペースを要したのです。皆さんの使用しているコンピュータを考えれば現在の技術進歩がいかに革新的であるかの想像がつくかと思います。
こんな科学技術の発展の中で唯一アメリカが旧ソ連に遅れていたのが宇宙開発でした。1961年4月ポストーク1号で初の有人宇宙飛行に成功したのがあの有名な一言“地球は青かった”と言った旧ソ連のユーリ・ガガーリンです。アメリカは安全保障が脅かされる立場から同年12月だったと記憶しますが、NASAを立ち上げ、8年後の1969年、私がアメリカ大学に入学する2ヶ月まえの7月、人類史上初の月面着陸と歩行に成功したのです。これは大変な偉業で自由主義社会の国々は蜂の巣を突いたような大騒ぎになりました。共産国がいつかの日か、アメリカとの冷戦時代の中で自由な社会にはかなわないと確信した大きな出来事でもありました。アメリカが世界中から一流科学者を宇宙開発のために呼び寄せたことは、云うに及ばないと思います。この後宇宙開発は1980年代のスペースシャトル時代の到来まで下火となりますが、人間目標があればあるほど進歩することがお分かりいただけるかと思います。 
(101)
どんな勉強でも専攻になってしまう大学教育
アメリカの大学教育は、誰もが挑戦したことのない研究課題を含め、他のいかなる研究分野においても“自らが切り開いて行ける”のが基本概念にあります。これは万民が成長してゆける一つの方法論でこの国独自の教育方針ではないかと思います。当時、例えば黒人学とか多国籍人類学・女性学・女性社会学・新興宗教学・少数派学・戦争犯罪学など今までに聞いたこともないような専攻が大学にはいくらでもありました。でもこのような専攻が少数の学生に挑戦されると設備の充実や教授の増員を余儀なくされ、大学は大赤字になりかねません。そこで合理的考え方として副専攻(minor)させ、限られた教科しか受講できませんが、基礎学問の出発点としては学生の進路判断に十分な役割を果していたと思われます。さらにその専門を専攻する覚悟ができれば教授が推薦状を書いてくれ、存分に研究可能な大学に編入できるのです。
では日本の教育現場はこのままで良いのでしょうか。見失ってしまった文化を今一度しっかりと検証してこれからの教育をどう立て直すのか、国民全体で考え直さなければならないと思います。この重大な課題をこれ以上放置すると日本の国際的な存続もさることながら、もっと根本的な“民族の生存”に係わる致命的な問題になりかねないと断言できます。これからの学生は“誰のため”そして“なんのための教育”を目指すのか、意味のない見栄や単なる大卒の肩書き欲しさとの縁を切るべきでしょう。現在のように“自分さえ良ければ”という風潮は加速度的に社会崩壊を促進させ、それは自分をも崩壊することを意味します。総てが無秩序になり、誰もが誰にも振り向かなくなります。この“無関心”現象は個人の孤独・孤立を増幅させ気持ちが益々満たされず、結果、社会が成り立たなくなるでしょう。この問題については違う角度から今一度問題提起してみたいと思います。
さて、日本の大学でも例えば女性学・同和教育学・アイヌ学・琉球王朝文化学等は存在するのではないかと思いますが、“日本の恥”といわれた森喜朗元首相・“首相になりたくてなった首相ではない”と海外から揶揄された宇野宗佑元首相を研究する学問はあるのでしょうか。それとも単に“くだらない”で済まされてしまうのでしょうか。
(102)
一般教養の受講は将来の生活に役立つ(1)
新しい環境の中でまずは学業成績の維持が、以降の大学生活を充実させる最も大切な条件だと言えます。冬休みも終えて1970年の春学期、登録した教科はスペイン語、マクロ経済学、細菌学、数学の中でもマトリックス(保険の価格決定に応用できる)、コンピュータのフォートランそして社交ダンスでしたが、勉強には積極的に取り組めました。また、自分が選択した科目が当初イメージしていた内容と異なれば、クラスが始まって3週間以内であれば変更することも無料ででき、宿題などの遅れは教授と話し合って期限を決めて提出すれば受け取ってもらえました。前にも述べましたが、学生のための教育が基本的考え方ですので、経済的にも余計な負担がかからないための便宜が施されていたわけです。
受講科目の中で今回は経済学がどう役立ったか書いてみましょう。経済用語の一つに“機会に対する対価”があります。これを英語で“Opportunity cost”といいます。つまり生活が便利になることは必ずそこに対価が生じるという意味です。例えば自動車を購入すると便利になりますが、対価としては購入費用、ガソリン代、メンテナンス代、車検、保険料、排気ガス汚染、廃車時のフロンによる環境破壊や車の残骸等です。他方、生活が便利になる例も羅列して選択肢を比較してから購入の最終決断を下すわけです。意味合いが多少違いますが、経済や経営学に出てくる“賛否・損得”を英語で“pros and cons”と呼びます。これらの用語と意味は毎日誰もがなんらかの決定を下す時に必ず当てはまります。私の娘がまだ幼児だった頃、言葉を十分理解していない時期にテレビの音声が割れて聞き取り難くなりました。言語の発育障害を起こさないように新しいテレビを居間に購入しましたが、古いテレビもまだ使える状態でしたので夫婦の寝室に移動しました。我々は家族の団欒を大切にしていて、ある 日いつもと同じようにNHKの大自然シリーズを解説していたのですが、後ろを振り向くと子供達がいなくなり、寝室でアニメを見ていたのです。ごく当たり前に反応しただけで叱るわけにもいかず、古いテレビは翌日リサイクルに出しました。親戚の自宅ではテレビ番組の取り合いが喧嘩のもとでそれぞれの子供にテレビを買え与えると、その日を境に食事時もばらばらになり好き勝手な行動パターンに変わってしまったのです。同じような視点から嫁姑の関係が嫌で別住まいであれば、不安が多い幼児期のリスクを総て妻が負うことも十分理解しておくべきでしょう。子供が病気になったりすれば年寄りは嫁に知恵を授けてくれるものです。さらに言えば、年寄りとの生活経験がない子供達は、十中八九結婚してから親とは同居しないでしょう。理由は親の考え方と同じだからです。
(103)
一般教養の受講は将来の生活に役立つ(1/2)
前回“機会に対する対価”、“賛否・損得”について書きました。またこれらの用語と意味は、誰もが日常的に何らかの決断を下す時に、どうしても避けて通れませんとも申し上げました。欧米人は利益を得ることの対価について、特に他人に迷惑を及ぼすと考えられる場合、相手から何らかの報復があることも想定します。意味合いはやや違いますが、日本的に言えば成功者はやっかみを買うということでしょうか。他人を踏み台に利益を受けた時のことを想定してください。ここで重要になるのが“危機管理に伴う代案”、経営学用語で言えば“コンティンジェンスィー・プラン”(contingency plan)を考慮します。なにが想定外で起こりうるか検証してあらゆる危機に対して準備を怠らず、従って本当に起きた場合、沈着に且つ敏速に対処できる ようにするわけです。自分の手に負えないものは弁護士を雇います。欧米のビジネス界と取引する場合当たりまえの前提ですが、家族を持つ我々はこの基本的考え方を多いに活用できるのではないでしょうか。事前に細かく想定しておくにこしたことはありません。
次に細菌学で学んだことも紹介しましょう。授業内容からではなく、教授の興味が高じて話していただいた世界のワインと日本に関する知識に大変興味を抱きました。教授はワインとの新鮮な遭遇を求めて訪問国を定めると、専門書を徹底的に読みあさりそこから得られた情報をもとに、世界中をかけめぐり個人的に気に入ったワインを買い集め、500本以上を所有していると聞き、アマチュアとしては大変な数だと思いました。まず始めに南米とアメリカですが、かなり昔からフランスから職人がその技を伝授するためそれぞれの国に渡っているため、ヨーロッパと比べて遜色のないワインを生産しています。ヨーロッパは葡萄の収穫年(vintage year)が非常に大切で、豊作だった年は今日でも世界最高のワインだそうですが、毎年気候の安定しているカリフォルニア産が当たりはずれがなく、お勧めだとも言っていました。南米産は人件費が他国と比べて割安なので、比較的安いワインでもおいしくいただけるようです。教授のワイン講義は細菌学のテストの一部として出題され正解であればボーナス点としてテスト結果全体に加算されるので、学生は皆難しい細菌学の専門知識のみならずワインの勉強にも力を入れました。次回は日本に関する“自然と文化”にふれますが、我々が近い将来考えなければならない日本の教育を再構築する上での原点ではないかと思います。
(104)
一般教養の受講は将来の生活に役立つ(2/2)
世界でもっとも美しい国―日本
日本に関する教授の講義を当時のメモから再現してみましょう。
葡萄を栽培する日本の気候に興味を抱き、専門文献や研究論文を読むうちにその国土に魅了され、初来日の時は東北まで旅をしました。実は今では上高地近辺に別荘も所有しています。世界中の国々の中で自然色が最も多いのが日本で、これはある研究論文で読みました。自然の美しさはひときわ印象的で、四季が安定し且つはっきりしているのもあの国の一つの特徴です。日本語は繊細で三つの文字、“漢字”“かな”“カタカナ”を使い分ける国は他にありません。“季節感”とか“人がある瞬間抱いた気持ち”を表現できる、例えば雨の中を散歩している事をイメージしてください。“雨”について何十種類もの呼び名があって、五月雨・時雨など、その瞬時の出来事や情景も想像できます。俳句はこれを実に分かり安く表現していて、いわば日本人の心の原点だと言えるでしょう。日本人は古代から自然の驚異を恐れ、よって崇め、自然界の総てに神が宿ると考えました。そしてその恵みをいただく、すなわち一年通して“育てる”あるいは“与えられる”恵みに対して頭を垂れ、祈り、祀り、感謝し、それを後世に伝授することによって確固たる習慣・風習が根付いて日本文化の“形”を創造してきました。私は世界各国の自然条件や祀り(祭り)を勉強・観察してきましたが、“自然”そのものに敬意を払う日本人の賢さに敬服しています。
暑中見舞い、中元、歳暮、四季折々の衣替え、七五三、成人の日、春分の日、こどもの日、敬老の日等など日本人の自然崇拝・節目への気配り・そして老若男女を問わず“人”を大切にする心は、日本人とその文化に裏付けされた、気高く親切な人間性について我々アメリカ人が多く学ばなければならない貴重な価値観だと思います。
農業が中心だった民族なので一箇所に定住して、農作物を収穫し、周囲との“和”と“平”を重んじてきました。勿論日本文化はこれだけでは総てを語り尽くせませんが、他国で見てきた山々、例えばアジアのヒマラヤ、ヨーロッパのアルプス、南米のアンデス、アフリカのアトラス等、目で見て実感する“驚異と荒々しさ”は日本の自然とは相いれない異質なものがあります。日本の自然美には、なだらかな安定感と優しさや気品、そして人間を安心させる要素があります。そしてその自然は日本人の心に反映していると思います。
1969年の夏、3年ぶりに私が帰国するまでは違和感を覚えず感動する講義だったと思いますが、当時の現状を鑑みるとやや懐疑的になったことも事実です。それでもこの講義がおかしいとは思わなかった時代、それが私の育った世代背景にはあったと思います。
(105)
次世代が真剣に考慮すべき現状の社会と課題(1/2)
前回日本人の心のよりどころについて、印象に残ったアメリカ人教授の講義を紹介しました。戦後60年たった今日、私が育った時代の背景だけでは未来の日本社会のあるべき姿は語りきれません。特に、物質的に恵まれ過ぎているためにその対価として、我々は謙虚さを失い自然界からのあらゆる恵みに敬意を払うことも忘れ、2000年以上もの間先人が培ってきた日本古来の文化をも捨て去りつつあります。私たちは基本的文化論を見失うことなく、しかし世界を念頭においてグローバルな視野・バランスある理論と思考、そして日本に適した将来の戦略や戦術を幅広く・社会的合意(コンセンサス)を得ながら、早急にこれからの方向性を取りまとめ、改革を実践してゆくことが優先課題ではないかと思っています。
1960年代官僚は建国のために多いに尽力したと思います。しかしながら現在はと言えば、政官財の癒着は人間の驕りと、馴れ合いから30数年前にさかのぼります。清浄機能が働かず腐敗が蔓延して到底終始が付かないような始末です。法の整備も具体的にはなかなか進みませんし、また暴利をむさぼるのは特定の組織・団体・政治家・公務員でしかありません。総ては国民の税金がでたらめに使われているか、増税の負担で尻拭きをさせられているのが現状ではないでしょうか。政治家、官僚、公務員は公僕であり国家・国民・の利益を最優先することが彼らの基本的理念のはずです。欧米人にも悪党はいくらでもいますし、巧妙に国民をだます者もいますが、“だます”とか“悪事”を働きそれが発覚した場合、その罰則は日本の比ではありません。2001年アメリカのエネルギー関連の巨大企業・エンロンが破綻しました。子会社との癒着が問題視されましたが、同時に政界との疑惑もかけられ、株価は大暴落しました。エンロンの会長はレイ経済学博士でアメリカ社会のエリートとして名をはせていました。レイ会長は自社株が破綻する前に所有していた株を売り抜けていて損害を免れたのです。これは株主に対しての背任だけでは止まらず、アメリカの巨大企業全般の名声をも大きく失墜させたのです。2006年10月28日土曜の晩のニュースで報道されましたが、レイ会長はほぼ無期懲役と同等な25年の実刑判決が言い渡されたそうです。想像を絶する時代変化の背景を鑑みますと、財政破綻が叫ばれる中、日本はあまりにも特権階級と権力者の犯罪に対して、いまだ寛容すぎると思います。
(106)
次世代が真剣に考慮すべき現状の社会と課題(2/2)
近年は平然と人に手をかけ、躾と称しては自らの子供をせっかん・餓死させたり、何もかもをリセットしたいといって後先考えず親にはむかう現状の社会。昔なかったわけではありませんが、今は日常茶飯事のように新聞やテレビを騒がせています。こんな状況にも関わらず五百数十校の高校は生徒に履修義務のある倫理や世界史などの教育を怠り受験科目のみに力を注いでいました。到底バランス感覚に優れた社会人になるとは思えませんし、いったいどんな社会に変貌していくのか末恐ろしく感じています。
私は、キリスト教の学校だったので6歳の頃から毎日のように聖書に接しましたが、やはり日本人ですので、ティーンエージャーの頃は仏教に関する本も読みあさりまし た。ブッダについてもその生い立ちや涅槃の境地にどうたどりついたのか、それなりの知識を得ました。イギリスから帰国してからは、休み中月に一度は奈良にある神宮にも父と共に通い続け静寂な拝殿で禰宜に祝詞を毎回奏上していただいて心静かに新たな気持ちで帰宅したものです。色々な宗教的な教育から、キリストの教えも日本人に役立つと思っています。私は神道ですが、キリストの教えは人間学・人類学だと考えています。仏教は自らが真理を悟って行く道のりで、自我は無我であってそれに目覚めた時初めて苦から開放されるという立派な哲学です。神道は自然崇拝で自然界からいただくあらゆる恵みに対して感謝の気持ちで接する、何事もはしょらない。これも立派な哲学といえるでしょう。しかしながら社会を人間学という違う角度から勉強してみるのもずいぶんと役立つのではと考えます。旧約聖書は人間物語が満載で楽しみながら人生について考えさせられます。実は近年、旧約聖書はただの物語ではなく真実だったという歴史的事実がいくらも発見されています。
アダムとイブは永遠の命を授かりながら禁断の実に手を出してパラダイスから追放されました。総てはここからはじまります。つまり、人間は完全ではないし、誰もが道を外すことが大前提になっています。また人間社会はその通りだと思います。モーゼはサイナイ山で10戒を授かり下山すると民は勝手な偶像を崇拝していました。神は怒り、民を40年の間砂漠でさ迷いさせ約束の地に入れませんでした。神はモーゼに、水を民に与えてはならぬといわれましたが、あまりの苦しみを目のあたりにして、水を与えてしまいます。モーゼだけが約束の地に入ることを許されませんでした。紀元前からこのような教育を受けてきたわけですから、ものを見る視点はかなり違うと思います。来週はもう少し人間学に触れてみたいと思います。哲学と違い人間学はもっと泥臭く、より現実に直面させられるので興味が一層わくのではないでしょうか。
(107)
ビジネス界の人間学・人類学
英語をいくら駆使できてもその先はどうでしょう。海外の文化を十分体験・理解したうえで海外の仕事に就いたとき、私たちは仕事以外の付き合いをどれだけできるでしょうか。社交性に富み相手に親しみを感じさせることのできる日本人はまだ限られていると思います。例えば海外からのお客様を寿司屋とか日本料理屋へ連れて行くとしましょう。時間をとって自国の食文化を外国のお客様に説明しているでしょうか・・・白身魚・アナゴ・コハダ・卵・ガリ・酢の物・器や旬の食べ物、調理方法等も紹介すれば、それは楽しみも倍増すことになりますし、当然相手に日本の文化につい ても教えていることになり、喜んでいただけると思います。たいがいの場合2度目は相手が誘ってきますが、“ここは僕らの領土(territory)、あなたの国へ行ったときにうまいと思う食事にさそってください”というと相手はにっこりして、“I’ll buy that ”“了解した”と言った会話が互いの信頼関係を一歩前進させたことがお分かりいただけると思います。
先日あるホテルに天婦羅を食べに行きました。大手会社の部長だったと見受けましたが、取引先の外国人が来る20分前に来てワインを選んでいました。ややしばらくすると英語の通訳と一緒に海外の取締役も皆同席し総勢で約10名いました。さて通訳は話している最中自分の会話のあらゆる場面で“You know”“そうですよね”を事あるごとに使っていました。学生用語としてはこれで良いでしょう。でもこれから会社の上層部との付き合いを念頭に置いた場合、彼らも高度な教育を受けていますので、出足か らこのような会話では好印象や信頼を持っていただくことは無理ではないかと思います。ワインも部長が選び試飲させるべき相手方社長に声もかけずソムリエはその部下に試飲させました。これでは接待が生きませんし、お互いが飲食する意味がありません。通訳がいれば総てが大丈夫ではないのです。食事中、相手の社長は“中国と日本食の違いが分からないが中国も天婦羅を食べるでしょう”と言われて日本人は皆意味不明の笑みを浮かべるばかりでした。お粗末極まりないし、なぜ説明せずにただケッケッと笑うのみなのでしょうか。照れ隠しはわかりますが、外国人には摩訶不思 議と思えたに違いありません。こんな例はいくらでもあります。
(108)
家庭内における人間学
今回は人間学の基本が家庭内のどんな場面で役立つのか、一つの例をあげて考えてみたいと思います。特に思春期で不安定な精神成長期にある子供達のケースを参考にします。問題解決に役立つか、あるいは少なくともその糸口が見つかるかと思います。
第106話では、それぞれが育った時代の背景における価値観だけでは未来の日本社会のあるべき姿は語りきれないと申し上げました。それは日進月歩で世の中が便利になることと、その対価として何かが失われることとが密接に関係しているからです。特に家庭内では百害あって一利なしで、常に気を配っていないと家庭崩壊の進行が見えてこないのが実情でしょう。つまり便利になることは親子関係・人間関係が希薄になるということです。例えば親は子供の自殺がドミノ式に起きている現象をどう捉えているのでしょう。子供を失ってしまえばもう二度と元には戻れません。問題が起きた後で学校や国を相手取り責任を取らせるために争ってみても、子供は永遠に戻らないのです。子供が親に話す言葉や学校での不快感はそのときの純粋な心の叫びです。本来は罰せられなければならない者に対する責任についても、何人もの犠牲者が出なければ学校や国も動きません。であれば、親こそが危機管理を怠ってはならないのではないでしょうか。一般的に日本の社会では、まさか自分達が不幸に巻き込まれるとは思っていないのが現状でしょう。
親はもっと耳を傾け、どう対応するか子供と共に話し合い、適切にまた俊敏に行動を起こすことが大切だと思います。素早い行動は、子供に責任の所在について強い認識を抱かせますが、反対に問題解決に期限を切らず放置すると子供の気持ちが変わりかねません。結果、親が振り回される事になり、一度親子喧嘩にでもなれば子供は親に心のうちを話さなくなりますし、問題を複雑化させるだけでしょう。
深刻な問題が発生したとき、誰もが孤独で一人で解決できません。いつもどこかで誰かに苦しい胸のうちを聞いてもらっているはずです。人間学は目と目を合わせ、目線をも合わせて聞いている側も真剣であることを相手に伝え、行動を起こす現場主義だと思っています。
(109)
知っておくべきアメリカの大学進学までのプロセス(1)
本来は大学入学に志望する前に書くべきことと思いますが、入学してみないと分からないことが実に多いことに気付き、大学進学までのプロセスについてはクラス参加を経験してみて大切な要点をまとめてみました。
(留学の目的)
アメリカの大学に限れば、留学するための難しい進学の意義付けは当初あまり慎重に考える必要はありません。それは選択肢が無限に近いといっても過言ではないからです。留学したい真意がどこにあるのか、それだけは親として最も重要なチェックポイントだと心得て下さい。当然逃避であってはいけませんが、前向きな姿勢が感じ取れれば充分に聞く耳を持っていただきたいと思います。アメリカの大学教育制度は学生一人ひとりがなにを学びたいのか、人間本位の教育制度であって大学が教育を施しているというような驕りはありません。教育を受けられる機会があるならば常に選択肢を多く持つことです。学生の憧れで特殊な技術を阻止する必要はありませんが、例えば野球選手や陸上選手などになりたいという希望であれば、30代後半で引退しその後の人生をどう生きるのか、親のアドバイスと子供との話し合いは絶対必要だと思います。
(留学から何を経験してみたいのか)
思春期は物事を複雑には考えず、大人になる過程で家から離れて挑戦してみたい気持ちが優先するのではないでしょうか。すでにイギリス留学で書きましたが、文化的背景が違うと新しい社会にすぐ溶け込むことは難しいと思いますし、特に言語の違いがあればもっと複雑になります。子供の頃から親子とコミュニケーションを大切にしておくことは留学する場合大変重要だと思いますし、海外に出たとき環境に適応できる速さにも関係してきます。新しい環境により早く溶け込むこと、それは友人が出来ることですが、留学の成功に関わる問題といっても過言ではありません。留学から何を経験したいのか、これは是非親子で話し合っておいてください。留学をする意味を確認しておくことは、留学中気持ちがぐらついたときにもう少し頑張ろうという気持ちの支えになりますし、また簡単にあきらめられないという反省につながります。次回は留学手続き、大学の選択、英語力などについて書いてみたいと思います。
(110)
知っておくべきアメリカの大学進学までのプロセス(2)
まず憧れの留学だけでは考えが甘すぎます。義務教育ではない最高学府への挑戦ですから、大学教授は学生が将来の“夢を追って”大学へ教育を受けに来ているという考えで教壇に立っています。授業へは金銭を払っても勉強に来ているわけですから、当然満足してほしいと考えます。従って一般的にどんな教科でも内容をしっかりと理解させるのに宿題・小テストは頻繁にありますし、中間・期末そして論文なども提出が義務付けられます。勿論中にはそう考えない教授も例外的にいますが、研究が中心の私立と州を代表する州立大学に多く見受けられます。学生は2学期続けて“C”平均(普通)の成績が取れませんと、留年はなく退学になります。本人に勉強する意志がなければ義務教育ではありませんので早く社会人になり、無駄なお金を使わせるのは大学側の不正だと考えるからです。
〔大学選びの基準〕
これも大変大切です。地域的にアメリカのどこで勉強したいのか。年間の天候状況や大学の規模そして立地は小さな町か都会なども事前に調べてください。場所によっては治安が悪いこともあります。東か西海岸の地域差も伝統的に人間性が違いますので留意してください。20話から33話のアメリカ短期留学はある程度参考になるでしょう。大学の情報収集は“日米教育委員会”が役立ちます。1952年に、当初は米国政府の資金によって設立されました。Yahooで検索すれば詳しく分かるでしょう。さて、大学選びの基準ですが、英語力は十二分にあることが望ましいと思います。TOEFLでいえば最低550は必要でしょう。500で受け入れる大学が主流ですが、私は不十分だと考えます。特に10,000人以上の大手州立大学になると教授のアシスタントが教える場合や、一年生のときは100名近い規模で一クラスが組まれている授業などは内容が理解できないと英語力不足は大きなハンディになるからです。安心して勉強に励めるように大きな街中の大学は当初避けるべきでしょう。また、学生の教育が中心の大学を選ぶべきで、研究中心は大学院へ進学の場合考えればよいと思います。まず教育システムになじみ、生活パターンを確立することに力を入れ、アメリカ人の友人を作ることからはじめてください。来週は後一度大学進学のプロセスについて書いてみたいと思います。
(111)
知っておくべきアメリカの大学進学までのプロセス(3)
皆さんが何を専攻したいかがはっきりしていて、且つ英語力も充分(TOEFL 550以上)であれば大学選びは最初からチャレンジングであっても良いと思います。つまりマンモス州立大学や競争力の激しい私立大学へ行くのも一つの方法でしょう。でも留学から得る結果を重視するならば、アメリカの大学が認める進学の方法論も考慮するべきではないでしょうか。まずは“学生の教育が中心”と考える大学(liberal art college)を選んでください。それも教授の協力を充分得られる中小の総合大学・学生総数3,000- 5,000人で、教育の質の高い大学を選出することがベストでしょう。学生は早く環境に順応して友人を作り、教育方針に慣れることが最優先順位だと考えます。マンモス大学の豊富な授業数は中小規模の大学の比ではありません。しかしながら、大学生になって一般教養を受講する当初約二年間位までは、専門とは違いますのでほとんど関係ありません。良い成績を維持する、教育システムに馴染む、そして編入できるメリットを生かせば良いと思います。編入によって今までの取得した単位が減るわけでもなければ、再受験する必要もなく、卒業が遅れる心配はまったくありません。編入はそれまでの実績が総て重んじられて受け入れられます。今まで私が出会ったアメリカの大学教授で、この方法を実践して良かったと信じている教授は100%です。アメリカの高校から大学へ進学して一年目に退学する学生の割合は約30%強に達します。その理由は高校と大学では求められる教育的質の高さがまったく違い、アメリカ人ですら新しい環境についていくことが難しいからです。幾つかの例ですがモンタナ州の私立キャロル大学からコロンビア大学へ編入した例、私立のロッキーマウンテン大学を経てスタンフォード大学院へ、州立フォート大学からハーバード大学院へ、私立ルイスアンドクラーク大学からカリフォルニア大学バークレー校への編入などの実例を知っています。もともと気に入った大学であれば勿論編入する必要もありません。
留学に必要な提出書類として先生の推薦状2通・高校の成績証明書・卒業証明書または卒業予定書・TOEFL結果・大学進学可能な残高証明書(総て英文)は願書と共に必要な書類となります。留学はそれなりにお金がかかりますが、留学生は親の太腿までかぶりつく気持ちで留学してください。その分兄弟や、いずれか自分が親になった時に自分の子供達に報いてあげることが大切だと考えます。まずは自分の成長を優先する事です。
(112)
人間学の重要性
107から109話についてはかなりの反響がありました。実は約50名強の若い方を中心に同年齢の方々にもグローバル道を読んでいただいていますが、人間学についてもう少しその必要性の解説をしてみてはというメールがいくつも届きました。大学2年目に心理学を受講しましたのでその時補足するつもりでいますが、私は心のよりどころが失われると人間は不安になり、いかなる時も心身の安全が確認できないと心理的に、また精神的にも耐えがたくなると思っています。例えば皇太子妃、雅子様の場合を取り上げて見ましょう。結婚当時皇太子は精神的にも大変タフなお妃を選ばれ、天皇家も“安泰”と私は考えていました。“ペーパー・チェース”という映画をご覧になれば分かると思いますが、ハーバード大学を卒業するのは並大抵ではありません。心身共にタフで天性優秀でなければ大学側が要求する学力に答えることはできません。それを卒業して学問を修めてきたわけですから、一時的にしても社会に適応できなくなるなど考えたこともありませんでした。しかしながら“お世継ぎ”問題ともなれば、どれほどのプレッシャーが雅子様にかかったかは、想像に難くありません。これが人間学を大切にしなければならない一つの代表的例です。
我々一般庶民の場合、近年本家長男の家元以外に仏壇を具え先祖を祭っている家族はどれほど居ますでしょうか。昔は父親が神道でなくても毎朝神棚の水・塩を取りかえ炊き立てのご飯を捧げ週に一度は榊を変えて、拍手を打ってお参りしたものです。仏様や神棚は一家の中心であり、日本人の心のよりどころだったはずです。子供達は父親のそんな姿を見ながら育ち、敬う気持ちが育ったのだと思いますし、親も自ら先祖や神様を大切にすることで、人の道を大切にしたのではないでしょうか。今では仏様のお骨を斎場のロッカーに預ける時代になってしまい、まともな子供が育成できるのか疑問です。総てが便利になる日本の社会的対価であって、もし神も仏も大切にされないのであれば、人間という不完全動物を誰がどう救えるのでしょう。心のよりどころがなくなれば、品性や人格について話す意味すらないと思います。子供と目を合わせ、目線も合わせて真剣に相手の話を聞き、行動を起こす。こんな角度からも人は救えるのではないかと考えますし、文化を失わないための知恵だと信じています。日本の伝統から考えれば、神・仏は是非お祭りしていただきたいと願っています。
(113)
大学一年目を終わってみて
一学期目は新しい環境に慣れるための調整や、大学生として、またベトナム戦争の緊張感等があってアッという間に終わりましたが、二学期目は自分を第三者的立場で見つめることの出来た良い機会になったと思います。全教科講義に出席するたびに宿題の山でしたが、特にコンピュータのプログラミングが大変で、午前二時前にベッドに入った記憶がありません。大学主催のパーティー・コンサート・大学間対抗のスポーツ等を見に行くチャンスがないほど多忙を極めました。覚えているのは金曜日授業が終わると疲労から即ベッドで眠りについたのと、毎晩のように凍りついた道をコンピュータセンターへ転びながらも自分の作ったプログラムが動くかチェックしに行ったことです。唯一楽しかったことは、体育の授業で社交ダンスを選択して、覚えが早かったのか男性ナンバーワンに選ばれ、女性ナンバーワンの“ケイ”に誘われて二人で朝4時30分からモルモン教の学生達に社交ダンスの団体競技を教えに行ったことでした。“ケイ”は信仰心の厚いモルモン教徒でワシントン州のモーゼスレークという町の美人コンテストで優勝するほどの美貌だったので、ダンス指導はいつも喜んで行きました。またビデオを見て自分達も練習する必要があって、一日で一番中途半端な時間帯だった授業終了後の16:00頃から夕食前の18:00頃までをダンスの勉強時間としました。考えてみると男というのは実に女性に弱く、よくあんな早朝からこりもしないで毎日教えに行ったと今でも思います。モルモン教徒の勤勉さと心遣いにも感激しました。練習期間中の約三ヵ月、常に全員参加で休んだ者はいませんでしたし、団体競技の当日は我々が講師として紹介され競技終了後、記念品までいただきました。
一年終了時、今でも忘れられない事にも直面しました。それは、友人の一人が学費不足で来年一年間は大学に戻れないというのです。仕事に専念して資金を蓄えて戻ると言っていた通り、我々が三年生の時に大学復帰しました。つくづく自分の恵まれている環境に感謝しましたし、休み中は毎年アルバイトを続けようと心に誓いました。その後三年間夏休みは父の経営する工場に行き、鉄製のロールを機械やハンマーを使用して造り、溶接や切断を徹底的に覚えました。
(114)
大学2年目に入って
一年が終了して勉強方法のコツを覚えたことは大変な自信につながりました。体育以外の10教科で“C”は一教科のみ、“A”が3教科他は総て“B”でした。どの程度の準備をすればどんな評価がつくのか、よく理解できました。クラスに出ること、宿題は決められた日にちまでに提出すること、小テストで良い成績を維持することは“C”をとるための最低条件で、日頃の約束事は期日を守ってこなしてゆくことがどの授業でも大切でした。中間や期末試験は毎日の勉強をしっかりとこなしておくと、それほど大変ではなく、テスト前に復習の時間をどれだけ使うかが、結果として“B”または“A”という成績に結びつきました。またどの授業もある程度の予習をしておき、分からないところは、授業中か放課後教授に必ず聞きに行くことが最も大切になります。前にも述べましたが、クラスの受講生が百人単位ですと、次の授業までに教授に会えない場合があって、宿題も不十分なものになりますし、また本当に授業が理解できているのか不安になり満足な結果は望めません。常に“高い授業料を払ってクラスに行っている”ことを肝に銘じてください。留学生は皆、地元のアメリカ人学生の3倍もしくはそれ以上の学費を払っているわけですから、留学生の学ぶ権利は誇示して良いと思います。
アメリカの教育システムで学んだことがあと二つあります。人間は大概がその“努力によって成果が変わる”ことと、集中できる時間は人さまざまだということです。5時間集中できれば3時間集中する学生より成果は必ず上がります。私の場合、集中できたのは2時間までで、その後は極端に能率が下がったために、お茶の時間として30分ほど休んでからまた集中しました。単純なように思われますが、社会に出てから以外に自分について知っていることが大切だと後日分かりました。また社会でサラリー マンとして働き始めたのが25歳で、日本の高校時代の同級生には3年間遅れを取りましたが、毎年皆の倍働けば、6年間で社会体験を取り返せると考えていましたし、その通りになったと思います。
次回は二年目の秋学期で専攻を決めた授業にめぐり合えたことと、子育てに役立った心理学の受講について書いてみたいと思います。
(115)
専攻を決定付けた“マーケティング360”の受講(1)
前学期マクロ・ミクロ経済学を受講して抵抗なく受け入れられたことと、次にマーケティングに挑戦したところ益々経営学に興味をそそられました。やはり教授がどれだけ情熱を持って授業に挑んで下さっているかが、学生に影響を多いに与えると実感しました。授業内容のいくつかを紹介してみましょう。世界初の商業用コンピュータ・ユニヴァック(UNIVAC)はレミントンランド社が1951年に発売しました。その前身はタイプライター(タイプライターがなんだか分からない若者もいると思いますが、キーボードを叩くとそれに連動して一つ一つのアルファーベットが小さなハンマーに置き換えられ用紙に文字を打ちつけます。言わば今日のワードの役割に似ています)の製造で19世紀末大企業に成長しました。レミントンランド社は第二次大戦中においては、拳銃の製造にも携わり米陸軍は大半をここから購入しています。現在はコンピュータ部門においてIBM (International Business Machines)を知っていてもレミントンランドのブランド名を聞いた人はいないでしょう。IBMはレミントンランドにコンピュータ部門では遅れをとっていましたが、企業戦略によって、一方は現在アメリカを代表する一企業に成長し、もう他方は名前すら忘れられてしまったのが現状です。IBM社の戦略は、自社製品の弱点を一切公表せず、ひたすら販売に力を注ぎました。不具合が生じれば間髪入れず回収して新製品の納入を繰り返し、取引先からは情報収集を徹底的に行って経験を積み重ね、それをコンピュータ改善にフィードバックしていったのです。それに対してレミントンランド社は自社ブランドの優れた点また弱点をも公表しました。結果は現在のマーケットが総てを物語っているわけです。
競合他社を追いあげる意味において、トヨタと日産自動車の例も取り上げられました。当時日産は“技術の日産”で海外でも知られるようになっていました。日産がいくつかの車種の販売をアメリカで始めたとき、ダットサン510(ブルーバード)、310(サニー)や240(Z)などでしたが、“ダットサン”名で統一したのです。トヨタは車種名のみのカローラ、コロナやマークIIなどで売り出しました。当時マークIIは欠陥車で駐車中の車が何台も発火して問題になりましたが、アメリカの市場で売れなくなっ たのはマークIIのみでした。
(116)
専攻を決定付けた“マーケティング360”の受講(2)
市場で製品を売る・同業他社に追いつく・追い越す・その反対に市場にとり残されることは、資本主義社会の中で日常茶飯事の出来事です。そこには長い間培って来たノウハウ・経験・誇りそしてそこから生まれるリノベーションが繰り返され、不安な思いも多々あるものの、自分が成長できるチャンスが存在しますし、生きる喜びもあるのだと思います。アメリカの大学学長を何人も知っていますが、どの学長も一番不幸な人間は物質的に満足している人間だと声をそろえます。どこの学長も寄付を募るためアメリカ中、時には世界中をかけまわります。すでに専用ジェット機を所有している・何億円という大豪邸を構える大富豪の中で、自らの生活を幸せと考えている人間は皆無に等しいと必ずいいます。若い人へのアドバイスは物質欲にのめり込まず、満足せず自分の成長と学ぶ喜びを知るために常に自己投資を怠らないことを心から願っています。自己投資は決して学校に通うことだけでは無いことも付け加えておきたいと思います。
ここでもう少しマーケティングの面白い実例にふれてみたいと思います。皆さんがよく行くスーパーマーケットとコンビニを考えて見ましょう。商品を見ますとまず自分の目線に売れ行きの多い商品が並べてあるのが決まりです。当然平均身長の消費者の目線が対象となります。目線は足元を見ることに慣れているため次が下の棚になります。一番売れ行きの悪いのは上部の棚にのせます。商品名は短く、消費者の年齢や受けを考慮して命名します。例えばビールのバッドワイザー(Budweiser)は商品名としては長く、売れたのは例外的です(日本大手銀行三社が合弁して各自の名前を総て残していますが年輩者には記憶しにくく、銀行の古い体質を物語っていて預金者のための銀行とは程遠く感じます)。
消費者は大別して3種類のグループに分類され、各マーケットの大きさによって製品を決めて行きますが、新製品を発売すれば直ちに飛びつくグループ。役割を果たせば満足するいわゆる無印商品グループ。そして高品質嗜好グループで、中間層は次第になくなります。
最後にもう一つの例をあげて見ましょう。“エンコ”(ENCO)というアメリカの石油会 社が世界に市場を拡大する時自社の名前が適切か世界俗語ソフトで確認しました。結果“エンコ”とは日本で車の故障を意味するため現在はエクソン・モービル社に変わっています。日本は気配りがある社会と言われていましたが、1969年近辺から“世界に学ぶものなし”という驕りが政府・財界にはびこり島国の哀れな姿があらわになり始めた時期と認識しています。そんな背景の見苦しい例として日本語英語(Japanese English= Japlish)があります。“アスリート・フット”という運動靴(水虫運動靴を意味します)、がありました。富士通のネオンの大看板がニューヨークの中心街に掲げられた“ファコム”(恥ずかしくて訳せません)、カルピス(会話的には牛の尿)、“ポカリ・スエット”(成分は分かりませんが汗の飲み物)、NHKのBS放送(BSとは牛糞放送・意味のない放送)等、いくらもあります。GDP(国内総生産)世界第二位の国のメンタリティはこんなものなのでしょうか。
(117)
各国の留学生との交流で見えてきたこと
イギリス人は名前を大切にして、農夫以外は私の名前を正確に覚えてくれました。これは相手に敬意を表する意味でも大切でしょう。では日本のマスコミはどのような基準で他国の大統領等の名前を記事に載せるのか、いまでも分かりません。学生時代著名政治家の名前がいくらでも取りざたされ議論しましたが、私だけが当初誰の話なのか、ついて行けませんでした。一番良い例は、中国の毛沢東(もうたくとう)国家主席で、学生は皆マオ・ツェートンと発音していました。現役では胡錦濤(こきんとう)主席ですが実際にはフー・ジィンタオです。韓国大統領では金大中(きんだいちゅう)でしたが、新聞は途中から韓国読みのキムデジュンに変更しました。旧ソビエトではペレストロイカを掲げたゴルバチョフは多少発音がちがっても通じますが、エリチン書記長はイエッツェンと呼びましたからわからないはずです。外国へ行って政治や宗教についてあまり突っ込んだ議論をすると友情が損なわれると言われますが、話以前に政治家の名前が通じないのも困ったものだと感じました。ましてや政治学や国際関係学等を専攻した日本人学生は余計な努力が必要になったことは、言うまでもありません。これが日本の常識だったのでしょうか。
話は少々飛びますが、以前日本でもウィルダネス(荒野・野生の意味)のポスター広告が街角や駅、そして電車内では中吊りとしていたるところに貼り出されました。一時期流行った野生を楽しむキャンペーンだったのでしょう。英語の単語がまったく思い浮かびませんでした。後日、wildnessウィルドネスであったことを知りました。ダとドの違いだけだと思われますが、“ダ”を使うとこの単語のアクセントはダの部分ですが、“ド”ですと“ウィル”が強調されるので、まったく違う単語に聞こえてしまうのです。
日本在住の韓国人3世からは、1世は勿論のこと2世についても日本で教育を受け韓国を知らなくても日本人に帰化できず、3世については留学中12ヶ月以上海外に滞在すると帰化を放棄したとみなされるので、1年に一度は日本へ帰国していると聞きました。これが事実であることは、社会人になって留学援助業務に携わってからでした。似たような例は2006年の12月頃と記憶していますが、イラン人の娘が日本で育ち高校を卒業、短大に合格しても、父親が不法滞在だったと分かれば、法務省は規定通り強制送還の方向でほぼ決定してしまいました。人道的見地とは日本で問題が起きた場合のみ存在しないのでしょう。  戦後見直された法律は60年昔のものであって、時代の変化が急速に進む今日、社会的歪みはあらゆる問題の根源との認識を誰もがもたなければならないと実感しています。
(118)
心理学受講が意味したこと(1)
経営マネージメントを専攻した場合マーケティングが必須科目にあり受講を決めましたが、何気なく同じカタログの中で心理学の教科全般が目に留まり、興味を抱きました。集団・児童・犯罪心理学等の概要を読むうちに興味はさらに膨らみ、とにかく入門編から始めてみました。内容的には甲乙つけがたく興味深かったのですが、講義的には実例がふんだんに盛り込まれ教授の情熱に催眠をかけられたがごとく、毎回授業がアッという間に終わったのがマーケティングの印象でした。先学期“A”だった経済学か関連ある経営マネージメントが専攻になると簡単に考えていましたが、たまたま目に留まった心理学が将来の方向性を変えることも充分ありえたのです。しかしながら、ある晩、授業外で教授の研究に協力する数名の学生が友好関係を深める目的で食事の出来るバーに行ったところ、教授が真剣に“ビールを二杯以上飲むやつはアル中だ”と言った事が気持ちをしらけさせたことは否めません。視野が狭く思慮深さに欠け、まるでヨーロッパに住む人達は子供も含め皆アル中と言わんばかりでがっかりさせられたのが本音でしたが、でもそれ以上に将来心理学でどんな専門職に就けるのかという疑問もありました。出足のつまずきがなかったら、そしてもっと情報収集に奔走していて専攻が変わっていたら、今企業で必要とされている心理カウンセラーが終身職になっていたかもしれません。周囲に遠慮をせず、人事を尽くすことの大切さと同様に、アメリカの最高学府は各学生に知的探求をさせ・各自が持つ特性を引き出し、個人を最大限伸ばさせる教育システムの良い一例だったと思っています。早速、心理学入門で大変勉強になった例をいくつか紹介してみましょう。高校の社会科教育では失明者の安全と苦労を認識させるために、実践実習がすでに行われていて、週の何日間は生徒が光を遮断するアイマスクをしてサポーターと共に町に繰り出し、心理的な危機感や不安を覚えた場所を、具体的にどう改善するべきかをレポートにまとめ、更には高校に戻ってクラス内で議論も戦わせていました。もう一方では失明者にインタビュー形式のアンケート調査を行い具体案のデータもまとめておきます。双方の結論は道路を渡って歩道に上がる時のバリアフリーに役立ちましたし、全車両が交差点で停止し歩行者専用の信号への切り替え、横断歩道を安全に誘導するメロディーの導入や、全車両の直進や左・右折車のみの信号の導入にも一役かいました。次回はもうさらに突っ込んで音や色そして発育についての心理学を書きます。(119)
心理学受講が意味したこと(2)
心理学の教授は雨音を人種別にどう受け止めているのかを研究していました。一般的に白人は雑音と認識していてストレスすら覚える場合もあります。東洋人・中でも日本人は心地よいリズムとして感じ取っていて、脳からは8〜13ヘルツのアルファー波が放出され瞑想やリラックスした状態で聞いているのが主流でした。気候や文化的違いから雨音一つでも受け止め方が違うことに驚きましたが、さらにその昔アラブに紙という概念が存在しなかった時代に新品の紙切れを机の上に乗せてその紙を拾い上げるように言ってもその方法がわからなかったそうです。
他の研究では我々が教授の実験台になって英語の単語をいくつ覚えられるか数百人単位で協力しました。一つ一つの単語に何の関連性もない場合覚えるのが大変ですが、国によってはいとも簡単に覚えられます。例えば日本人の場合、9番目の単語がピアノそして記憶があいまいになりがちな10番目が猫としますと、三味線の絃は昔猫の皮を使用していたので三味線をピアノに置き換えると次は音色のための弦、つまり猫で結び付けられるわけです。色や光についても簡単に触れてみましょう。アメリカへ行ってホテルの部屋の電気を入れると日本の家屋のようにメイン電気が煌煌と部屋全体を照らすことはまずありません。普通は部屋の入り口に一つ、机の上に一つ、ベッドの左右に一つずつそして窓際の左右に設置されていて、大概の日本人は部屋が暗いと感じているはずです。
欧米人はホテルや家に帰ると落ち着いて、ストレスを感じないライティングにしているのです。蛍光灯もまず家庭内では使用しません。青白い光は物を不健康そうに見せますし、特にダイニングでは食べ物の鮮度が悪いようにみえます。電気をフルに使用しているところは、キッチンやトイレ兼用の風呂場ぐらいではないかと思います。今週と来週で心理学についての話は切り上げますが、発育については、子供を育てるのに大変参考になると思います。皆さんは猿の赤ちゃんが生まれてから一定の年月、しがみつく対象がないと死んでしまうことや、子供達どうしで社会性を学ばないと社会に対応できなくなることをご存知ですか。
(120)
心理学受講が意味したこと(3)
発育の心理学では猿の参考例を中心に欧米人と日本人の子育ても取り上げられました。猿の赤ちゃんは一定の年月しがみつく対象がないと孤独から死んでしまうことは前回申し上げました。従って母親が子育てを拒否すると小猿は生きられません。しがみつける対象物が何であれそこになにかあればしがみつき、そして飼育係が餌を与えることによって小猿は育ちますが、親になると今度は自分の子供が育てられなくなります。それは親の愛情を知らないまま育つために育て方が分からないからです。欧米人は当時胸の形が悪くなるので母乳を与えませんでした。また見栄えを気にしたため赤ちゃんをベビーカー(乳母車)にのせて散歩にでかけました。これはまったく間違った育て方で親の肌から伝わる温もりや、母乳を飲むことでいただく健康と愛情を知らずに育ってしまうのです。赤ちゃんはよく観察すると母乳を飲みながら母親の目をジーと見ていることに気付きます。母親は赤ん坊のまばゆいばかりの目を見入ることによって愛情が増幅する相乗効果があります。日本の当時の母親はどうだったでしょうか。まさに背中に赤ちゃんを背負い、栄養一杯の母乳で育てました。親の充分な愛情で育てた子供は歩くようになって公園につれて行くとその子の成長が見て取れます。遊びが最優先しますから、親の所在は確認しますが、鳩を追いかけ回すことに夢中になります。多分親のほうがあまり遠くまで行かないように促すでしょう。子供をいつもしかりつけて自分の判断を下すのが苦手に育った子供や、親が甘やかしすぎた子供は見慣れない不安な場所に出かけると、母親からほとんど離れられず、いつもそばにいるか確認します。これは子供の自信なさの現われです。
子供の頃に近所の友達と遊ばず社会性を学ばなかった場合どうなるでしょうか。現在の子供の環境はコンピュータゲームを相手に遊んでいるのが普通の光景でしょう。小猿は遊びの中から一つのルールを学び仲間に溶け込みます。猿の間で行われるマウンティングや毛づくりする行動は、猿の中での順位を決めるいわばかれらの社会通念で、このルールを知らないで育つと喧嘩が始まり、全体から槍玉にあげられたり、仲間には入れず孤立してしまいます。簡単なことのように思われますが、意識して子育てに当たらないと、子供が一定の年齢に達すると性格的な修正が難しくなることは毎日にぎわす新聞記事でお分かりだと思います。
(121)
アメリカ人とイギリス人の違い(1)
この二国間で何が違ったか、欧米人とのつながりや総合的な観察からまとめてみたいと思います。まずはスポーツ面から検証しますが、比較内容は常にアメリカについて述べ、それからイギリスの順番で書いて参ります。まず人気的にはフットボール、バスケット、野球、ゴルフ、テニスに対してサッカー、ラグビー、ゴルフ、テニス、クリケットではないかと思います。両国の大きな違いは観客動員を優先した手法が、人工的手法に対して自然のままに、と考えた事だと思います。例えばヘルメットや防御ガードを着用したり、室内競技場が公式戦開催場だったり、またゴルフはラフでも整然と手入れされていたことでしょう。もう一方は怪我人が出ても戦力を補充できなかったことや(今は多少違うかもしれません)、名門のゴルフ場はラフの手入れがなく、フェアウエーをはずすとラフは30センチ以上も雑草が伸びてボールが出ません。次に人間的には子供の頃から自立を促され独立と自己との戦いを常にプレッシャーと感じながら日々を送るのと、子供の頃は比較的両親に守られながら育った違いです。娯楽面のテレビで言えば、クイズ番組と週末はほとんどがスポーツ中心で約十チャンネルだったのに対して、メロドラマ(ソープオペラ)とニュース中心の二-三チャンネルでした。酒・タバコのテレビ広告は許されましたが、画面上直接飲む・吸うことは禁止され、直接購入には身分証明書が不可欠だったのに対して、一切合切テレビ広告は禁止されましたが、購入は比較的可能でした。医療については、当時から有料で歯科・眼科は必ず渡米する前に検査をしましたし、どんな手術にもいたらないよう気配りしました。他方、外国人も医療費無料は大変安心できました。鉄の女と呼ばれたイギリスのサッチャー首相の時代、保健・医療・福祉関連の無駄や運営費の問題が1985年頃本格的に指摘され国民へのサービス低下を招いたことは忘れませんが、この基本的縮図は現在の日本における老人医療問題をそのまま再現しているように感じます。
学校生活ではアメリカにあってイギリスでなかったことがいくつかありました。度が過ぎると感じたことも度々でしたが、まず全裸でキャンパス中を何人もの学生が夜ストリーキング(streaking=ジョッギング)しましたし、雪の激しく振る晩は千人以上の学生が雪合戦に参加して怪我人が出て明け方近くに終息しました。次回も両国の違いを検証します。
(122)
アメリカ人とイギリス人の違い(2)
引き続きアメリカの大学生活から始めますが、新入生については入寮儀式(initiation=イニシエーション)があり、日本のような一気飲みは法律上禁止されているため、公衆電話ボックスに新入生が何人入れるか、他愛のないことをさせていましたが、これも彼らのエネルギーの一部なのでしょう。生活面ですがアメリカは本当に合理的社会だと思います。“使い捨て”が主流で、感覚としては1,200円のジャケットを月百円(日に置き換えると3.3円)着こなして一年で使い捨てします。色やスタイルはその年の主流で、例えば腰の部分を絞り込んで外見上のスタイルは良く見えますが、反面ジャケットの裏生地が使われず余計な加工は一切なく、ただ縫い合わせただけでシンプルに出来上がっていました。それに対してイギリスではジャケットは何年たっても形は崩れないし体格が変化し始めた20年後まで着こなせました。体格が変わらなければ今も使えたと思います。この件については、一生使えるものを作れば経済は発展しないとイギリスにいた頃は考えていましたが、その後アメリカの39代ジミーカーター大統領が専門家に命じて出版した食糧事情と環境問題の未来像を予測した、いわゆる“カーターレポート”に目を通してショックだったことです。それは資源が未来永劫にあるものではなく、使い果たしてしまう時代がそう遠くない将来にあることでした。このレポートは1980年に目を通したのですが、それより7年前の1973年に“ソイレント・グリーン”というチャールトン・へストン主演のアメリカ映画を見ていました。自然を謳歌できたのは古い昔の話で死に際に美しい地球や野生をビデオで観賞し、イチゴジャムは一瓶たしか150ドルで売っていたと思いますが、当時1ドル300円としても45,000円、そして人間は亡くなると他の人間の食料に変わるという内容の映画でした。良し悪しは別にしてもこんな発想やアイディアそして警告を鳴らすのはアメリカ人特有ではないでしょうか。また、本物志向で一生涯使える製品・商品を作ること(リサイクルも含む)や所有することの大切さを知らされたのもこのときでした。本物志向の重要性は人との出会いにもそのままあてはまりますが、今回は主題が違いますので論点とはしません。英語の発音と形容詞は比較的直接的なのに対して詩的なのがイギリスと思われます。次回も二国間の違いを続けて書いてみたいと思います。(123)
アメリカ人とイギリス人の違い(3)
まだまだ違いはありますが、もう少し書き綴ることによって文化的背景が見えてくると思います。一日の仕事が終わった後の社交場は、ラーガビール中心のバーに対して味を重要視した地ビールで炭酸が利いていないパブでしょう。近年はイギリスもラーガに変わりつつあります。両国共に情報交換の場としても利用していますが、友人でない限り知らない人がめったに声をかけないのに対して、パブでは大きな輪が広まりいろいろな人たちから話しかけられました。気さくなのが特徴とも言えますが、一つの例としてスコットランドへ行く途中、“三ツ星パブとレストラン”と看板に表示されながら四つの星のイラストで私のような観光客は好奇心で立ち寄りました。レストランは三ツ星が最高ランクですが星が一つ多いのです。これは店主のウィットでうまい食事だと強調していて、地元の人たちも頭を縦に振ってからローカルな会話が始まります。またバーとパブでは国の事情があって危機管理がより必要なバーと安全なパブの違いがあるのではないかと思います。家族についてですが、親と子供が別行動でめったに一緒だった記憶がなく、また裕福な家族でも皆で酒を酌み交わした経験が皆無に等しかったのに対して、週末は全員参加の物造りに参加して夜は食卓を囲み意見交換をしながら、白や赤ワインを飲んで本当に楽しい家族の団欒を経験しました。誰もが楽器を弾き食後は応接室でブランデーを嗜みながら楽器演奏があったり、8ミリを見たりもしました。皆で楽しむ工夫があったというのが率直な感想ですし、家族の絆が強かったといえるでしょう。国内旅行ですが、前者はモーテルかホテルで一通りのアメニティ(宿泊用必需品)が揃っていますので不便することはありませんが、人との接触が限定されていますので、その地方の情報を入手することに限界がありましたが、他方イギリスにはベッドと朝食(bed & breakfast)を提供してくださる民宿 があるので、旅が一段と楽しくなったのは言うまでもありません。前夜情報で得られた名所旧跡訪問やレストランやパブに昼食を食べに行ったりもしました。このように両国を比較すると明らかに違いが際立つ形で見えてくるのではないかと思います。文化というその国独自のアイデンテティーを含めた経済発展。そしてそれに対してどのように人・物・金を動かすのか考えていかなければ、美しい日本の本当の意味での構築はないと考えます。
最後に同じ英語圏でありながら、単語の使い方の違いを例に挙げ、両国の違いについて書き終えたいと思います。エレベーターはリフト、車のフッドはボンネット、くず入れのウェイスト・バスケットはダスト・ビン、アパートのアパートメントはフラット、一階がファースト・フロアーはグラウンド・フロアーで、イギリスではファースト・フロアーは二階にあたります。まだまだありますが、これぐらいにしておきます。
(124)
使い捨てではなく本物志向の重要性
123話の中で1980年のカーターレポートと1973年に見た映画ソイレント・グリーンに 触れましたが、その中で限られた資源を大切にしないと大変な資源不足におちいり物不足に拍車がかかって、同時にこのままでは環境問題にも影響をきたすことを述べました。1973年私はまだ大学4年生としてアメリカにいましたが、この時期日本では環境汚染対策が発展途上国並で、日本最大の工業地区である京浜工業地帯(神奈川・東京・埼玉・千葉の沿岸)では5月頃から9月頃まで頻繁に光化学が発生しました。特に川崎地区の生徒多数がグラウンドで倒れたとの記事がテレビや新聞をにぎわせていましたし、子供の体調に異常をきたしたことも何度かあり、引っ越す市民も現れ始めました。とにかく数多くの高い煙突から有害なスモッグで視界をさえぎるほど空気は汚れていたのです。私は冬場に高速道路を走っていてピンクの雪を見てぞっとしましたし、何も分からない子供達があの状況に遭遇したら雪はピンク色と思ったに違いありません。なぜ自分たちに与えられた素晴らしい環境をこれほどまでに痛めつけるのだろうか。繁栄や競争のためなら無責任なことを平然と行い、生まれてくる次世代の環境を羞恥心もなく平気で汚染する。天罰が下るような行為をしておいて大人はなぜ結婚して子供をもうけるのだろうか。太陽系の中で、唯一生命体をはぐくむ地球を破滅させるために人類は生まれてきたのかと思いたくなるほどでした。地球が生まれて46億年、多細胞生命体の誕生は10億年前、人類が地球上を闊歩し始めてまだ言葉がない時代、他部族との争いを避けられたのはテレパシーが言葉の変わりをはたしたからではないかという仮説を人類学の授業で学びました。こんな気の遠くなるようなプロセスを経ながら今の人類が生存して現在を謳歌しているとすれば、人間は必ず目的を持って生まれてきているはずなのに、現状をどう受け止めたら良いのか、どう考えても不合理にしか思えませんでした。この時期社会の矛盾、環境への配慮、自分はどこから来てどこへ向かっているのだろうかという疑問にさいなまれていて1960年代は英国の理論物理学者スティーブン・ホーキンのビッグバン(宇宙は有限時間の過去から始まる)や1988年には“ホーキング宇宙を語る、ビッグバンからブラックホールまで”といった、たいそう難しい専門書にチャレンジしていました。(125)
決まった専攻科目
二年目の春学期を終えて帰国する前、ほぼ専攻を決めていました。商法、社会学、会 計学I、経営統計学や人類学の講義を受けてみて、経営マネージメントを専攻しようと考えたのです。経営学なら社会へ出てから広い分野で応用が効き、つぶしもきくと思ったからです。また商法などは大変興味深く、会計学や経営統計学も苦ではありませんでした。夏に帰国後、父の許可を得て工場で夏休みの半分を働き、残りの半分は営業に回って取引先を訪問してみました。父の仕事をほんとうに継ぐべきなのか、疑問を持ち始めたのが二年目以降の経験からでした。営業の仕事は注文をもらうと伝票を切り製品を箱詰めして、時には在庫がなければ取り寄せ納品するという単純な作業でした。工場で働いた一年目の夏は、新しいことを覚え始めていたわけですから溶接・切断や鉄製のロールを機械やハンマーを使用して造ったことは勉強になりましたし、それなりの満足感もありました。そんな時期、まだ景気が良かったので工場では一日に何百トンもの鉄の板が工場に運び込まれると、すでに納入された鉄の上に積み重ねられてしまうのが状況でした。当然早い納期のものは下から引きずり出さなければならず、そのために毎日半日もかけて無駄な時間を費やしていました。父とは自宅で週に何回か食事をしていましたので、鉄の板を立てた形で業者が納入できる仕切りを作り、時間の効率利用を考える必要があることを提言しましたが、残念ながら聞き入れられませんでした。もっともそんなスペースがなかったのかもしれません。こんな時間の無駄と、もう一方では単純作業でよいのか疑問を持ちましたが、本当に重大だったことは1973年に起きた第一次石油ショックと、日本では当時長い年月経験したことのない、1974年のマイナス成長でした。日本の経営基盤があまりにももろく、音を立てて崩れてゆく経済を目のあたりにしたとき、鉄の時代はもう飽和点に達してしまったのではないかという認識を持ってしまったのが、偽りない気持ちでした。こんな時代にアメリカでは天気予報の売買がすでに民営化されていて、アジアでの独占販売権取得はどうだろうかと考えたりしていました。若さゆえに仕事の本質を理解していなかったと自覚したのは父の仕事に役員として参加した時で、特にISO(国際標準化機構=International Organization for Standardization)取得の重要性や金属加工への興味、特殊金属への用途開発、そして精密機械を使用した新製品への挑戦をこころみたときの奥行きの広さに感慨深い印象を受けました。(126)
大学三年に戻ってからの生活環境
2年間学生生活を経験して日常の生活にも慣れてきましたが、この間の生活を振り返ると随分とわがままな自分に気付きました。あれほどアメリカの寮での食生活がイギリスと比較すると、とても豊かに感じていたのが、2年の2学期目は昼食か又は夕食の一食のみ学食へ行き、日に2食分の食事代を学食以外で無駄にしていたのです。3年目は友情が厚かったマオとジョンそして私の3人で大学のアパートへ入ることを決めました。マオは土木工学が専攻で、ジョンは医学部でした。二人とも勉強には積極的に取り組んでいましたので、大変刺激を受けました。アパートへは3人で入る前にそれぞれの責任について約束事を決めました。それは共有部分である居間・風呂場・オブンそして食器類は自分が使用したときは使用後すぐに清潔に保つことと、3人で食事を作ったときは全員で後片付けをすることで、友情関係を維持する上において役立ったと思います。ジョンのみが車を持っていたので、買い物に行くときは、ガソリン代も折半しました。ガールフレンドを招待して食事をアパートでする場合は前もって知らせておくこと、そして帰宅時間も決めておきました。月に一度はホームパーティを開き毎回15名近い友人を招待するのですが、マオは香港出身で中華料理を作らせると大変な腕前を披露しましたし、ジョンはオブンを上手に使って何種類もの肉料理が作れました。出来なかったのは私だけで、早速週末には二人に手ほどきしてもらいました。自分なりに初めて作ったのがもやし炒めそばでしたが、もやしに油を使いすぎてラーメンの上にもやしを乗せると油がたっぷりと浮いて、食べられなかったことを今も良く覚えています。こんな生活をスタートさせましたが、パーティ時の肉の消費量が多かったために、3人で折半して牛肉を半頭分購入して肉屋の冷凍庫に保管してもらったことも、日本ではない経験でしたので良き思い出として残っています。忘れられない苦い体験は、この年ジョンは21歳の誕生日を迎え、バーで祝杯をあげたのですが、友人が多数参加したために帰ることが出来ず夜中に酒気帯びとスピード違反で捕まってしまったことです。結末は次回にお話します。(127)
ジョンに起こった取り返しのつかない体験
ジョンの誕生日の晩、祝杯を挙げに3人で下町に繰り出しました。大学がある田舎町は、個人が膨大な畑を持つ専業農家が主で大麦を栽培しており、従って人口も少なく学生総数と同じ12,000人程度でした。町は学生の落とすお金で商売が成り立っていたわけですが、それでも23時以降までバーで飲んでいると、帰り道は警察の標的になりがちなので、飲酒運転で捕まる恐れがありました。私は以前から飲んだら乗るなと言われていたので、アパートを出る前に歩いて行くことを提案しましたが、遅くならないからと言われて21時30分までに帰宅することを互いに約束して車で出かけたのが、大変な結果を招いてしまったのです。下町には“リコ”と呼ばれていたバーがあり、学生の間では一番人気がありました。当然多くの友人に会ってしまい、10人ほどが我々のテーブルに集まり大々的な飲み会になってしまったのです。21時30分をはるかに回り、ジョンには再三帰ることを促しましたが、皆を残したまま帰宅できないと言い、マオと私は徒歩で帰ることにしました。23時にはベッドに入っていましたが、その後何時になっても帰りません。午前3時頃だったと思いますが、アパートのドアーが勢いよく開き安心しました。ところが翌朝ジョンがすでに隣部屋にいないので大学へ行ったのだと思っていると、夕方になってもアパートへ帰ってこないのです。大学内の常駐警察署に深夜電話しても居場所が分からず、仮に留置場に入っていれば隣町の“コールファックス”だと聞きました。2日経って初めて逮捕されたことがわかりました。彼の両親はすでにジョンから電話が入っていて保釈金のために奔走していました。6日後アパートに帰宅しましたが、彼は疲労困憊していただけでなく、痛く名誉を傷つけられていました。帰宅途中25キロオーバーと飲酒運転で逮捕され6日間留置所に入っていたのです。ジョンは過去2年間総ての教科で“A”を修めていて有望な外科医の卵でしたが、この一件で夢の実現を絶たれてしまったのです。留置所ではアル中や麻薬中毒者と一緒の部屋で過ごし、最悪だったと言っていました。次回は最終的に裁判所がどのような結論を求刑したか、また新しく加わったルームメートについて、書いてみたいと思います。(128)
ジョンに下された厳しい判決
大小含めた罪に問われると、捕まったその場で両手を後ろに回され手錠をかけられますし、スピード違反でも一般的には同じことです。決められた社会的ルールを破ることは最悪の場合、どんな悪事をしでかすか見当が付かないと考えるからです。ジョンは警察官に教科書を取りに行く許可をもらってあの晩一時帰宅しました。6日間帰れなかったのは何百万円という保釈金が必要で、それを積んでようやく釈放されるからです。酒酔い運転・25キロオーバーの初犯であれば家族の誰かが迎えに行くと帰宅が許される日本とは事情が大きく異なります。成人男女の場合、権利や自由は勿論保障されますが、社会的責任・義務については厳しく問われます。意味のない言い訳や責任 を回避しようとする屁理屈は成人として誇りを持ち合わせていない、信用できない者と決め付けられます。従って“飲みすぎて何をやったか覚えていない”という言い訳は卑怯であり、大人として認めませんし、許しません。例えば強姦罪で有罪となり、牢獄へ入れられると他の犯罪人から今度は自分が強姦されることも覚悟しなくてはなりません。一つの例ですが、“T”ボーンステーキの骨を使用され、腸まで達したケースを弁護士の説明で聞いた事があります。被害を受けた女性の悲しみを知れといわんばかりに、他の犯罪者にまで見下されるのです。日本であれば今回は初犯で且つ反省が伴うので、仮に被害者がこの事件がもとで自殺未遂をはかったとしても、実刑判決は2〜3年程度でしょうが、アメリカでは甘くはありません。勿論情状酌量の余地があるかは吟味されますが、それでも被害者の権利がないがしろにされ、泣き寝入りしなくてはならないような判決はありえません。特に性犯罪の処罰が軽ければ再犯はよりエスカレートしかねないからです。罪人の欲望とはそうゆうものだと心得ています。いずれにしてもいかなる犯罪に対する刑は日本の比ではなく、厳しいと知っておいてください。
ジョンの最終判決は1)1日6時間の社会奉仕を半年間努める。2)大学の授業は総て参加できるが、社会奉仕できない場合は1日6時間の留置場生活を半年間努める。4)保護監察かに措き毎週1回監察官に出頭・報告してその都度反省文を提出する。5)人の命を預かる医者の卵としての資格を有せず、未来永劫医療活動を許可しない、でした。FBIに前科一犯として左右・正面から撮影され・指10本の指紋をとられ、これで全米どこへ行っても医療行為はできないようにされ、万事休すとなったわけです。20年後ジョンとはシアトルで会いましたが、癌研究センターで働いていました。外科医になる夢は今も忘れていないといっていました。次回は、新しくアパートに加わった友人について書いてみます。
(129)
新しくアパートに加わった友人
ジョンの一件からアパートのムードは一変してしまい、なにかぎこちない雰囲気が漂っていて心を痛めるばかりでした。私にはこれにもまして不幸な一報がイギリスから届いたのです。ナッシュ教授が外科手術の技術を伝授して帰国後、子供達の変化に気付きました。それは、私がイギリスにいた頃の乱れた生活状況でした。ロバートは髪の毛を長くしたままでしたし、姉アリスはロバートと同じように休日や週末になると朝食には起きてこないのが習慣になってしまい毎日を無気力に過ごしていました。これがジョン・ナッシュ博士の逆鱗に触れ、妻ノラ博士の監督不行き届きが問題視され離婚に至ってしまったのです。結婚なんてこんなにはかないものなのかと思いましたし、理想と現実があまりにもかけ離れていて、ナッシュ夫妻の結婚を生涯の家族・家庭の見本と考えていただけにショックは大きく男女関係が信用できなくなりました。だからといって付き合っている女性の献身さに対して喧嘩が元で軽率な言葉使いで傷つけてしまったことを今でも反省しています。一方、アパートの雰囲気を“不”のエネルギーから早く“良”に変えなければいけないと感じていたとき、経営学を一緒に学ぶ韓国人のジェイ・パークと共同で会社の立て直しプロジェクトを進めていました。稀なバリトンで隠し事ができないほど良く通る声で、すこぶる明るく物事にこだわらず、存在感のある人物でした。釜山出身で親父はガラス工業の社長で財閥の御曹司だった事は後に判明します。彼は私のアパート住まいがわかると、共同生活できないか頼んできました。ベッドは一つ余計にあったので、早速我々のアパートへ引っ越してきまして、彼の存在感でアパートの雰囲気はプラスの流れに一変しました。韓国の男女の立場はこのとき聞きましたが、日本より15年近くは遅れていると思いました。実はジェイの姉も同じ大学へ留学していましたが、ジェイは積極的に姉を紹介しなければ、褒めることも一切しませんでした。初めてジェイの姉と分かったのはキムチを届けにきて弟にある許しを請いに来たときでした。テニスを始めたいことと、1月に大学主催のスキーに参加したいというものでしたが、弟は両方とも許しませんでした。自分では贅沢な新車のキャデラックに乗りスキーに行き、テニスをやっていたにも関わらず許可しません。姉に好きなことをやらせると韓国では不良と決め付けられ結婚がままならなくなると言っていましたが、日本も当時まだ酷い男尊女卑でしたが、贅沢を不良行為と決め付けていたのは大分昔だったように思いました。(130)
大学三年からクローズアップされ始めた内なる格闘
22歳だった125話から世の中の矛盾を気持ちのうえで整理・理解し、自分はどうある べきか、また将来の生き方に必要と思われる、自分自身を探すための第一歩となりました。まだ自分では完全に理解出来ていない複雑な精神構造と年齢からくる身体的成長の調和を導き出せずにいましたが、まずはとにかく自分が生きている意義や存在感、つまり人間として生を受け自分を支えている基本的背景を理解することが一番の近道だと思ったのです。これで絞り込んでいったのが精神と肉体との関係で、言い変えれば哲学(精神論)と考えていた仏教や神道に対して、人間学(肉体論)と思っているアダムとイブが語り継がれてきた聖書でした。永遠の命を頂きながら神との約束を破ることによって楽園から追放される物語。まさに人間の弱さ・不確実性などは世界どこを見回しても同じではないかと考えたのです。一つの例ですが肉体にメスを入れても美しくなりたい人間の虚栄心は一部の宗教団体と確固たる信念を持つ個人を除けば、どこの国へ行ってもなんら変わりありません。そんな中で基本に立ち返り、理論物理学者のスティーブン・ホーキン教授のヒッグバンによる宇宙の始まり、予測される宇宙の未来像をできるだけ科学的に理解しつつも反面理解できない宇宙が始まった理由をわきまえ、神のみ知ると描いてみせる論理は我々平凡な人間にしてみると、祖先が何のために守ってきた文化や人間を尊ぶ意識の範囲とは程遠く、未知の世界でしかありませんでした。しかしながら生を受けた追求と何故・如何してという疑問符を抱いて考えを整理してみた事は、その後の人生に多いに影響を及ぼしました。この時期、私はもう一人の著者ライアル・ワトソン教授の著書に大変興味を持ち出版された書は総て読んだように思います。1973年のスーパーネイチャーI、76年の未知の贈り物、79年の生命潮流、スーパーネイチャーII、アースワーク等など、超自然現象を世界的な実例から自らが経験し考察しているパワフルな書で、未来の科学は超自然現象を科学的に検証する時代になると書いてあったのが印象的でした。自分や他者を知り、現象が起きる理由を整理・理解することの重要性を学んだと思います。是非一度読みやすい書から始めてみてください。(131)
大学3年を終え夏休み日本で気付いたこと(NO.1)
経営学専攻で大学の3年間を終えると必要となる基本的学問はほぼ履修していて、4年次はそれを応用した経営実践学・企業倫理学・企業家経営学(entrepreneurial management)などの学問が主体となります。3年時までは管理マネージメント(operation management)・生産管理学(production management)・経営管理の原則(principles of management and organization)・企業戦略と政策(business strategy and policy) などは必須教科としてすでに学んでいます。さて、このような学問を履修しつつ更に日本の固定相場制(1ドル=360円)を念頭にしても、欧米諸国と比較して当時の物価は国民を優先とした政策を取っているとは感じ取れませんでした。生活する上で日常必要となる“必需品”(米・野菜・魚・肉等)や豊かになれば“嗜好品”(宝石・自動車・酒類・ブランド品等)とに分類されますが、主食の米などは当時カリフォルニア米と比べて約2倍強の価格でしたし野菜や肉類も倍近く、“不当な値段”と感じていました。アメリカは車社会ですがガソリンの安さは日本の30%程度、駐車代金にいたっては1セント(3円60銭)から可能でしたし、駐車時間を決めるのも選択できました。例えば5セントをパーキングメーターに入れれば15分間駐車できました。10セント入れれば30分になるわけで、仮に30分の駐車が必要と思いつつも10分で車を動かせば残り20分は次に駐車する人が使えるわけです。日本のパーキングメーターは300円支払って駐車時間が残っていてもゼロに戻ってしまいます。また横浜東口のようにタクシーやバスの乗り場へだらだらと歩くこともなく、駅をでれば目の前から公共の乗り物が利用できるのが普通でした。民主主義とは国民の便宜を最優先することが国づくりの第一歩と考えています。税金を払っているから政治家や官僚が必要というのが原点で、税金なしにはなにも始まりません。つまり社会が機能する仕組みがないかぎり“経理”は必要としません。(国家とは別の意味も持ちますが、大前提は総て国民ありきが基本と言いたいのです)従って国民は血税の重要性について無頓着であっては“断固”いけません。また日本の偏った教育システムに飼いならされない考え方や発想、そして自分や家族の幸せがなにかを直視し、政 治家や官僚が我々の大切な血税をどう使っているのか厳しくチェックしなければなりません。我々一人ひとりが強いこだわりを持たなければならないと思います。次回はもう一度このテーマについて意見を述べてみたいと思います。(132)
大学3年を終えて夏休み日本で気付いたこと(NO.2)
偏った教育システムとは当時どうゆう事だったのでしょうか。それは受験制度と東大を頂点としたピラミッド型教育システムに他なりません。その頂点に立てば、国民は一つのシステムしか知らないわけですから、自分の存在感・価値観をその社会の仕組みの中で見出そうとします。立法に携わる人間や官僚のキャリア組みにすればこの制度は願ったりかなったりでしょう。問題事が起きてもいかようにも申し開きができ、それが簡単に通ってしまいます。最近大層高い飲料水を飲むことを平気で言い通そうとする農林水産大臣や事務所費の領収書義務付けが不必要なこと・国会で無料な水道光熱費の計上問題・個人的飲み食い・行ってもいない視察に特別公務費を平気で通してしまう背任行為等も、いかに国民を馬鹿にしているかの裏返しに過ぎません。いったい何年昔からこのような不正があり、国民が尻拭いを負わされたのかも分からないのが現状でしょう。大人はこれからの世代を担う子供達のために無責任政治屋を国政からなんとしても引きずり降ろす・官僚の天下りはさせない・それぐらいの心得なくして子供達の将来について、明るい生き甲斐や希望を持たせられるとは到底思えません。現在のように国が目標を見失っている時代では、我々大人こそが罪のない子供を育てる意義とその環境を整える必要があるのではないかと考えます。私は子育てを簡単にできると思ってはいませんし、子供達の基本的人格はあまりにも短期間で形成されてしまうと考えています。大学3年を終えて日本で気付き始めたのが、国民の利益と一致しない不合理な言い訳とシステムでした。例はいくらでもありますが、前回必需品の高いことに触れました。農家は自民党にさんざん守られたと思います。自立を怠ると今の農家が苦しんでいる理由が見え隠れします。嗜好品についてもなぜ日本人は当時海外へ行くと有名ブランド品やお酒を買い求めてきたのでしょうか。それは政治と企業で不正が横行する、持たれあい関係を継続してきたからではないのでしょうか。近年ジョニーウォーカー黒ラベルやシーバス・リーガルのスコッチを一万円支払って買う人はいないでしょう。英国の圧力で酒の自由化が促進され、今では二千円前後の値段になったにも関わらずサントリーやニッカが倒産したわけではありません。欧米に日本企業の育成の遅れを認めてほしいというのが主張でした。なぜ高い関税を課して日本の企業を政治屋や官僚が守ってきたのでしょう。今なら当時の五分の一で購入できるスコッチ、即ち国民不在の政治をどう捉えますか。こんなことも是非自問自答してみていただきたいと思います。(133)
大学3年を終えて夏休み日本で気付いたこと(NO.3)
1972年GNP(国民総生産=Gross National Product)が世界第二位にありながら、又世界の情報が席巻しつつも、なおこの国特有な思考の中で時代の変化に対応できず、国民は“こうあるべし”という基本的理念は戦後25年以上経っても本質的になんら変わっていなかったのが印象的でした。役所は相変わらず横柄でしたし、“役人に従え、この紋所が目に入らぬか”がまさに定着していました。私が大切だと信じていた家族の絆などは依然としてないがしろにされ、本来家族や社会が豊かになれば手作りの弁当を持たせ、子供はそんな中でごく自然に家庭や人間の愛情に気付くと理解していました。それを放棄する母親・何も言わない父親・時代の変化に対応しない学校・PTAの真の存続理由等に疑問を抱きました。国民を飼いならし、主体性を持たせない国・出る釘は打たれ、目新しい発想にいたっては“おまえはどこの馬の骨か”と軽視する社会・世界との歪みが一層際立つ日本・どれもが多いに気になりました。伝統を守ることの重要性と、給食の慣習化によって失われる“日本の家族”の原点は当然相容れる対象でないはずが、大人は自分達の利便性とすりかえ、給食の便宜がなくなる事は不平等・不公平を平気で言い切る意識の低さに怒りさえ感じました。各家族に主体性がなくなると、どうなるでしょう。例えば、レストランでメニューを見ているうちに定食が目に入り比較的手ごろな価格で、アペタイザー・サラダ・ステーキ・コーヒーもついてデザートまであります。これをウェイターにお願いして又サラダのドレッシングを指定すると、定食はドレッシングが決まっていますと言われました。唖然としましたが、他の客はそのまま言われたことを受け入れていました。大正生まれの叔父や父はそんな返事で納得できないどころか、“マネージャーを呼べ”が第一声でしたし、私はその反応を不思議とは思いませんでした。更にあるとき家族と一緒に久しぶりの朝食のためにレストランに入りました。フレンチ・トーストをお願いしたもの の、ベーコンが付いていません。ベーコンは他のメニューの一部として見ていたので、小皿にベーコン三枚を頼んでも、“ベーコンを単品で出せません”と断られました。これもまたウェイターの回答をそのまま受け止める他の客を理解できませんでした。“国民はこうあるべし”という枠組みから変われない社会の仕組みに問題があると真剣に感じました。長い歴史を持つ国が得た経験とその対応策、変貌を遂げている社会を理解できるだけの“知恵と知識”を持っているのが本来の姿ではないでしょうか。政府・官僚を野放しにしている“意識と感覚を自らが正す”これが日本を正常化できる最後の砦ではないかと思いました。(134)
大学3年終了時ショックだった留学生受け入れ事情
1972年の夏休み私は日本で就職活動を始め、アルバイトをする傍ら履歴書を希望する職種の人事課に、1973年卒業予定で送りつけました。第一候補としては、やはり海外との取引に目をむけてマーケティングを重視する商社でした。第二候補はマーケットに敏感に反応し、商品・製品の販売促進を情報化時代にマッチしたメディアを応用して販売に大きな影響力を与える広告代理店です。一番やりたくなかったのは事務系で寝てもさめても机に向かって同じことを繰り返すことは、自身の成長に役立たないであろうと想定したからです。商社は数多くの国と接点があって最も柔軟性に富んでいると思っていましたので、履歴書は大手から中堅商社まで約20社程度に積極的なアプローチをかけました。商社であれば将来が約束され安定して給料が良いのではないかと考えたことは一度もなく、海外留学の経験から活躍できる場が将来必ずあることに期待をかけていて、むしろ世間を知らない新入社員が給料をいただくことなど、これから教えていただくいろいろな経験・ノウハウについて申し訳ない気持ちでした。採用予定がどうであれ企業は必要とする人材の履歴書は破棄せずに取っておくと、経営学で学んでいたので、結果商社のみとの面接にこの年の夏は打ち込みました。残念ながら失望を感じさせられたのがこのときの体験でした。もっと風通しの良い自由な雰囲気かと思いきや厳しい上下関係を面接時強烈に印象付けられました。当然新入社員は研修を経てコピーのとり方も教わっているでしょう。しかし面接官はコピーがなってないといって怒鳴りますし、あれを持ってこい・これを持ってこい・これは違うと言ってはまた怒鳴り、新入社員は申し訳ございませんと言っては頭を下げ、もうさがって良いと言われるまで直立不動で立ち、正直面食らったのが率直な気持ちでした。とてもこうゆう雰囲気の中で集中して良い仕事は出来ないだろうとも思いました。結果面接があった大手・中堅商社からの誘致は、次の段階に進むことはありませんでした。ショックは隠せず、今までの人生と教育はなんだったのかかなり迷いましたが、95話で書いた学生達が制作した宇宙―地球―フロリダ半島―海岸線―男女の喧嘩そして又宇宙に戻ってゆく実験的映像が頭をかすめ、とるにたりない一つの出来事と納得せざるを得ませんでした。(135)
納得いかなかった留学生受け入れ事情(1)
取るに足らない出来事・商社から断られてよかったと言い聞かせ大学へ戻りましたが、悔しさを脳裏から切り離せなかったのも事実でした。こだわりを捨てきれなかったのは長年受けてきた教育の意義と、商社も含めた日本社会とのギャップの大きさでした。大学生になって、3年修了時まで順調にきていた経験が最後のつめの段階で何一つ生かされないと思い知らされてしまったからです。当時、学部留学生は限られていて広く一般的に普及されておらず、現在のように日本企業のキャリア・フォーラムによる留学生の面接がシカゴ・ニューヨーク・ロサンゼルスやヒューストン等でまだ実施されていない時代でした。ただ不思議な事にどのようにして探したのか、4年生の秋学期日本の企業二社から誘いがあり帰国後面接に来ないかとの手紙と会社案内が直接送りつけられてきました。日立製作所と日本通運でしたが、日本の企業にはほとほとうんざりしていたのと、考えもしなかった職種でしたので返事さえもしませんでした。アメリカでの就職も考慮しましたがいやな予感がしていました。当時の大統領が実施したいわゆる“ニクソンショック”ですが、1971年ドル防衛のために金・ドルの交換を停止する措置、又輸入課徴金を発表したことで世界にショックが走ったことでした。世界的不況になる引金にいたるのではないかと思いましたし、追い討ちをかけるように1973年アラブ諸国がイスラエル支援国に対して原油停止や削減をし、OPEC(Organization of the Petroleum Exporting Countries=石油輸出国機構)は原油価格を約4倍に引き上げたために先進国の間で大混乱が生じ“オイルショック”に見舞われたのです。どの国でも不況になれば優先して自国民の職を確保しますので、私には次のステップとしてどうしたらよいのか手の打ちようが分からないのが正直な気持ちで、とても不安でした。こんな心の内を手紙にしたため父に送付すると、一ヶ月もしないうちに父と妹が突然励ましに大学に現れいささか驚かされました。“おまえもここまで長い間自分の道を切り開いてきたのだから、気を落とさず目的は達成しなさい。意義のある仕事は探せば他にもいくらでもあるだろう”と説得され三日間の滞在後帰国しましたが、妹は私の世話をさせるために残しました。本当に感謝しましたが、ショックの傷はまだ癒えた訳ではありませんでした。(136)
納得行かなかった留学生受け入れ事情(2)
目標を見失い思想的にも間違った方向で物事を考え始めた私の手紙に対して、敏速な反応とアメリカまで会いにきてくれた父親の素早い行動は人生の大切な一コマとして心に深く刻まれ一生涯忘れることはないでしょう。社会をまだ知らない訳ですから、心の格闘はその後も続きましたが、それでも私を救ってくれた大きな一つの出来事だったことに違いありません。妹もまた長期間にわたり炊事・洗濯・掃除に献身的に携わってくれました。1998年9月4日、45歳の若さで他界しましたが、今でも本当に感謝しています。勉強する緊張感が解け何のための努力か分からない日々をただもんもんと送り続けましたが、やはり最後は“自分で問題を克服する”気持ちが人生を前向きに考える原動力だと確信しています。人間学が教えている人間の不確実性がゆえに重要となる人との接点、つまり周囲の暖かいささえ、思いやりの行動、そして議論の末のアドバイスをいただけることは勇気をもらい行動を促します。哲学的議論だけでは問題解決になり得なかったと今でも思います。4年の一学期目はバーでビールを浴びるように飲み女性関係もどろどろしましたが、父との約束を守らなければいけないという想い、そして今まで体で覚えた“習慣”とはえらいもので、朝5時になると勉強しなければ、と心配して目が覚め授業に出ました。二日酔いで何回も宿題提出を怠ったことを今でも思い出します。自分が最もきらっただらしない生活は今でも悪い思い出として時に夢に現れます。こんな状況下にあっても薬物だけには手を出しませんでした。学業成績についてはもうぼろぼろで、4年の一学期目は初めてのプロベーション(仮及第=C平均以下)を味わい“どん底”の気持ちでした。プロベーションを連続2回繰り返すことは退学を意味するので、自分を叱咤激励しましたがそれでも最低限の努力を実施したに過ぎません。3年終了時までは3.45の成績があったので次回からはC平均であれば仮及第からは解かれますし、又3年半の大学生活からどれ位机に向かえばどんな成績になるかは熟知していました。必須科目を2教科落していましたので修了には4年半かかりましたが、副専攻を取りたいというわがままを通し、春学期が終了する5月下旬まで大学に残りました。父に促され1974年8月上旬に帰国しましたが、夏休中の約2ヶ月間は最高の気晴らし期間になりました。一緒だったジェイ・パークが大学にゴルフ場があることを教えてくれ、2人で通い始めました。覚えると楽しくて早朝からボールが見えなくなるまで毎日まわり続け、夏の後半はアールというクラブコーチの無料レッスンを毎日受け、18ホールを80前半で回れるようになっていました。(137)
卒業後の新たなる発見と体験(1)
5年を終えて帰国すると羽田空港には両親が迎えに来ていました。大学留学中の夏休みはいつも父が羽田へ送り迎えをしてくれました。毎度のパターンですが帰国すると必ず焼鳥屋へ直行して散々食べてから、寿司屋へ飛び込みます。いきなり寿司屋だとカウンターで一度に一万円以上食べてしまうからです。当時の食欲といえば洋食屋へ行けばライス付きのハンバーグを食べ、それから250グラムのサーロインステーキを2枚食べてもまだ食べ足りませんでした。今回の帰国は大学を終えた安堵感もさることながら、就職するための心配事も感じていませんでした。気にかかっていたのは飲みすぎからくる健康上の問題だけでしたので、人間ドックに入りましたが結果は良好で異常はどこにもありませんでした。授業だけは休まず出席していたことが体調を救い、自分の心を救い、自分を最後まで捨てていなかったのだろうと思いました。勿論世話になった妹の目があったのも多いに関係したことでしょう。歯と目の検査にも出かけ、とにかく次のいかなるステップにも対応できるように万全な準備をしておきました。5年目の一年間は本当にまごついたので批判できる立場にはありませんでしたが、留学中から5歳年下の弟の生活が大変心配でした。(1999年7月29日、45歳で他界)高校の頃から大酒は呑む、タバコは吸う、大学生になると生活は益々乱れ、毎晩のように午前様を繰り返し、大橋巨泉の11PMのマージャン大会に出場したこと等を鼻高々に話していました。遊びの度が過ぎ、金に困ると競馬や的屋まがいのことを平気でしていました。父の仕事を将来預かり、とても540名の生活(当時180名の従業員x各家族3名=540名)の面倒など見てゆけるはずがないと思っていましたし、両親と大学生の面汚しだと本人に言ったこともありました。案の定大切な学生時代を遊んで通してしまったため、社会に出てから課せられた責任とプレッシャにいつも不安だったと思います。“おやじからは責任ばかり負わせられる”が口癖でした。弟とは本人が本格的な病に侵されるまで兄弟仲も良く、多岐にわたる人生の意義や努力について話し合い意見交換し、アドバイスもしてきたのですが、学生の頃は毎日が楽しくて聞く耳を持ちませんでした。妹そして弟のあまりにも早い他界はいかに妹弟が母不孝(父はすでに1990年11月11日に他界)であり兄弟不孝であったかおわかりでしょう。若いときに自己探求をして自分の存在感の大きさをもっと理解していれば、このような不幸な結果には至らなかっただろうと思っています。(138)
卒業後の新たなる発見と体験(2)
私が帰国すると中学時代の友人がナイトクラブへ連れて行ってくれましたが、金の使い方が荒く性格が随分と変わっていました。三軒回って一晩で少なくても50万円は支払ったと思いますが、このような無駄遣いは社会に出て、テレビ局のデレクターも同じでした。友人は酔うと美人ホステスの胸元にお金を押し込み、人間扱いしない振る舞いに見苦しいからやめろと注意したほどでした。ホステスは気を遣ってタバコに火をつけてくれましたので、私も彼女達に同じようにしました。お絞りをいただいたら“ありがとう”とも言いましたが、周りの客を見ていていると無言か、“うん”とうなずくだけでした。どうして上下関係を意識するのか、また威張って見せているのがよくわかりませんでした。金を出すその対価としてサービスする、従って金をだすからといって偉くもなんでもないと思うのですが、私にはその態度が異質にしか映りませんでしたし、今でも理解できません。飲み屋やレストラン等のサービスが不十分だったり、言葉遣いが悪く、食事の内容を間違えたり髪の毛が入っていたりした場合、マネージャーを呼べばいいのであって、それ以外は楽しく食事をするのが私の認識でした。家庭を例に挙げると妻がいなければ夫は日常生活に相当困るのではないでしょうか。夫は“俺が養っている”という意味のない驕りを捨て、“お互い様・お疲れ様”といつも思えれば、夫婦生活はもっと円滑になるのではないかと思います。男は何が怖くて女性を平等に扱えないのでしょうか。威嚇や威張ることはサルの世界であって、自分の存在感を威張ることによって示そうとしているのであればそれはおぞましいばかりであって、長い目で見れば男女の関係にとって決して幸せな結果になるとは思いません。勿論男女であるがゆえに互いが出来ることの違いがあり、互いに合意しなければならないことも多々ありますが、人間として平等であることは何一つ変わりません。日本に帰国してゴルフ場にも何回か行きましたが、一人でゴルフバッグをかついでゴルフ場を回っているゴルファーをみたことがありません。メンバーズコースともなれば当時キャディーはあたりまで、海外のメンバーズコースとは相容れない、日本で勝手に作り上げた特有なマナーのシステムだけでした。皆に合わせないと恥をかくという独特な雰囲気が漂っていることも否めませんでした。(139)
いよいよ二度目の就職活動
就職が決まる前に新たな発見でしたが、結婚式の披露宴に参加するお客様が皆同じ黒い礼服を着衣していることでした。現在はバライティーな礼服で披露宴に参加していますが、黒の上下に白いタイは定番で、タイを白か黒に変えるだけで生と死に分けているのにどんな歴史的背景があるのか興味を持ちました。生と死は喜びと悲しみですから陰陽五行思想に何らかの共通点があるのではないかとも思いましたが、しかし何百人もの披露宴参加者が同じ黒の礼服に身を固めているのは異様以外のなにものでもありません。まるで一家の絆をまとめるためのやくざの会合のように見えてなりませんでした。紋付袴で参加しろといわれればまだそれぞれの特徴を生かせるし、日本的で説得力があるので喜んで指示に従いますが、もともと洋服は外来物で礼服として指定されるのであれば、披露宴に出ないほうがよほどましと思っていました。
さて日本に帰国して夏場の一ヶ月半ほど大いに遊びその後就職活動を開始しました。外資系か合弁会社に的を絞りましたが、純日本社も2ー3社面接に歩いてみました。外資系社員はバラエティーにとんだ背広の上下を着ていましたが、日本の会社は皆ねずみ色かダークブルーが基調でした。当時から33年の年月が経過していますが、近年の新入社員もまったく変わることなく同じスタイルの服装を着用しているのが目立ちますし、ここ2、3年は黒の上下が基調のようです。上下関係も変化しているようには見受けられません。むしろ変化がないがゆえに、移り変わりの激しい昨今異常なストレスから社内的ないじめが目立つようになった気がしてなりません。
オイルショックの影響から各社採用を控え就職のハードルが高くなり、浪人することもある程度覚悟しました。1974 年は戦後初めてのマイナス成長で高度経済成長期が終焉した年でもありましたが、それまでオイルショックのような政治の情勢によって、いかなる努力をしても会社が計り知れない不況に襲われると予知した人間はほとんどいなかったのではないでしょう。この頃から会社も学生の大学での専攻を重要視し始めたように思われます。そんな状況下でしたが、広告代理店に面接していただくために歩き回りました。11月一杯まで就職活動を実施し、今年はもうだめだろうとあきらめ本の出版に取りかかったのですが、この時期まとめ始めた骨子が今回の出版の第一歩となりました。1975年1月12日月曜日、外資系との合弁広告代理店から採用したいとの電話が入り、いよいよ活躍の場が与えられました。就職が決まって結果的には今まで本当に取るに足りない思い込みを後悔しましたが、自分が成長してゆく過程において大切な経験だったとも思っています。贅沢な悩みでしたが、欲を言えば年が明ける前に採用が分かっていれば、どんなに正月が楽しかったことか、これも一生忘 れることはないでしょう。
(140)
エピローグ
人生の転換期はその時々の状況だけでは決まりません。自分が受けた学問、育ってきた時代背景、社会的環境や自然環境、影響を与えた家族と家の文化、躾、道徳教育、人々との係わり合い、多いなる体験・経験、多彩な価値観との出会いそしてその出会いを通しての反省等です。従って私は忠実に自己の体験を基にこの本をまとめることによって、皆さんの将来の生き方のヒントになってくれればというのがこの本をまとめた趣旨です。題材を絞り込んで深く考え、意見を伝えるのも一つの方法かと思いますが、プロローグでお話しましたように英語を駆使できる人間はいくらでもいても、国際社会と相手の文化を理解しつつ、自分の主張を率直に伝え納得させることができる真の国際派は今日でも決して多くいるとは思いません。従って、経験してきた例題が多岐にわたり内容的にはもっと掘り下げるべき部分は沢山あったかと思います。しかしながら今までの家族関係から申し上げると、現状がこうだからこうするべきと進言すると、“説教はたくさんだ”とか“自分が経験していないから分からない”になってしまうのが普通ではないかと思います。意見の押し付けではなく人間の持つ好奇心に刺激を与えるべく実例をたくさん上げ、それを皆さんが読みつつ独自の道を切り開くための一言になったほうが意義を見出せるのではないかと考えました。従って極力具体的に、自分の恥や劣等感そして家族や親族についても隠さずに書いてきたつもりでいます。
現場主義、自分の目で確かめる、情報化時代、グローバル化、国際社会に対応して行く道等まだまだ多様な方法論があるかとは思いますが、この本を通して皆さんになんらかのお役に立てれば私自身も二年を費やし書き記してきた意義があると思えますし、これに勝る喜びはありません。最後に、私を支えてくれた家族・友人・海外の人々・学校そしてこの企画を提案してくださった留学・国際資格情報館 館長横溝様そして最終的に全文をまとめていただく出版社の皆様方のご尽力に心からの御礼を申し上げ、締めくくりたいと存じます。
(141)
homeへもどる