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私の歩む グローバル
     



初めてのホームスティ
私がホームスティのあることを知ったのは12月になってからのことでした。父が冬休み中の住居を気にして学校側に依頼してくれていたのです。いよいよ休みに入りホストファーザーのジョン・ナッシュ医学博士が息子のロバートと私を学校まで車で迎えにきてくれました。体格ががっちりしていて190センチ近くはあったと思います、まさに風格のあった大男といえたでしょう。自宅はブリストル郊外、学校からは約140マイル、約225キロほどの距離ですが無料の高速道路(motorway)が発達していてすがすがしいドライブでした。どこまでも続く田園風景は今でも脳裏に焼き付いています。いよいよナッシュ博士の自宅に着くとまず家の大きさに驚かされました。もとは領主の家だったようで、アルガ−ズ・マノーア(Algars Manor)という名前が石造りの家についていて、なんと築400年以上と聞き二度びっくりしました。20台は駐車できそうな広場に、車を高さ150cm程の石垣前に止め、石垣中央の入口から家に向かって石畳の上を歩き始めると左に綺麗に刈られた芝生の庭、そしてその中央には直径3m50cm程の円形の噴水がありました。この庭に面して右側が自宅、そして歩いている目の前には更に高さ3m程の石垣があり、その奥は200平米以上あるだろうと思われる立派なイギリス庭園がありました。
さて、自宅の入口を入ると家の中が石畳でできていて玄関内の広さは畳15枚程あり、真ん前がドア−のついた娯楽室、左に進むと応接室、右に進むと正式なダイニングルーム、右上に進むとキッチンと家族のダイニングになっていました。どこの部屋の床も板張りでカーペットが敷かれていて、重厚でどっしりとした家具が備え付けてありました。立派な暖炉も各部屋についていて、暖炉の薪割りは後日私の仕事となりました。
ナッシュ宅はすでに長男と長女が結婚していて、ナッシュ博士の他に小柄ですが気品が高く知性にあふれ、お嫁さんにしたいと思うほど素敵な奥様のノラ医学博士、小柄で金髪の次女アリス、やや小柄な次男のロバート、住み込みで方言がひどく筋肉質の農夫ジムの5人住まいで、ジムとは休み中毎朝農場で私が手伝いをさせていただいて、本当に素晴らしい思い出として心の奥底に残っています。
ナッシュ家は広大な土地を保有していて、牛は50頭、羊は150頭、豚は20頭、鶏が10羽そしてポテトを栽培していました。次回は農夫としての体験について書いてみます。
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ナッシュ宅での体験(1)
留学中大半の長期休暇は毎年ナッシュ宅でお世話になりました。冬と春休みに体験して記憶に残る農作業を中心に書いてみます。まず英国人は当時、人を呼ぶとき名前を大切にしていて、英語に無い発音でも、何回も練習して正確に私の名前を覚えました。農夫ジムに限っては方言がひどく名前がきちんと呼べなかったので、“オー・ブライミー”(Oh blimey)と言って苗字の一部をとり、初日農場に出る前に私を“オグ”と命名して最後 までこのニックネームで呼び続けました。
実は農場を手伝うことにしたのは、ホームスティの費用をとっていただけず、健康のために良いからと理由をつけて始めさせていただきました。朝は4:00に起きてジムが作ってくれる朝食をたいらげ4:30には真っ暗な農場に出ます。駐車場広場にでると左側に一頭づつしか入れられない牛舎が五棟、真向かいが干し草を蓄えておく大きな倉庫、右へ行くと豚小屋、右上へゆくと残り45頭用の牛舎になっていました。なぜ一頭ずつ入れる牛舎と他を分けるのかと聞くと、同年齢の牛でもがつがつ食べる牛が毎年数頭いて早く市場に出荷させるので、がっついている牛を一頭ずつの牛舎にいれ極力動けないようにしてどんどん食べさせるそうで、単に経済的理由だと説明してくれました。
朝一番の仕事はまず牛のベッド作りで、干し草を敷き飼い葉桶に餌を順繰りにいれてゆきます。牛はとても不潔で所かまわず糞尿をしてしまい、その上にも平気で横たわるので、早朝牛舎に入ると足元がぐしゃぐしゃでした。それに引き換え豚は清潔で豚小屋の中では決して用をたさず、必ず外へ出てきて済ませます。豚の糞をシャベルでかたづけ豚を外に出して餌を与えると次は羊の世話になります。牧草を食べているの で、特に餌を与える必要はありませんが、羊毛が伸びすぎると夜横になって寝ると羊毛のクッションで羊が裏返しになってしまい立ち上がることができず、朝になって死んでしまう場合があるそうです。牧羊犬(sheep dog)が羊を一箇所に集め農夫は羊が引っくり返っていないか広大な土地を歩き回ります。私も羊が足を上にあげたまま立ち上がれない状態を二回目撃しました。
ところでジムも私も長靴を履いていましたが、普通のとは違い向うずね部分に余裕の隙間があるので何のためかと聞くと、ヨーロッパで梅毒がはやった原因でそこに羊の後ろ足を入れたそうです。勿論ジムはそんなことはしたことはないと弁解していましたが、何かそのとき怪しい大人の世界の一部を垣間見たような気がしました。
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ナッシュ宅での体験(2)
ある寒い早朝、一頭ずつ入っている牛舎の扉がベッド作りで使用した干し草の湿気で重く開かずに奮闘していると、尻をこちらに向けた牛が軽く咳をした結果、生暖かい汚物が私の顔を縦に直撃したのです。これが第一回目の農業は職業にしたくないと思った貴重な体験でした。その日のうちに二度目の強烈なボディーブローも経験することになります。五頭の牛が風邪気味でしたので予防注射を打つことになり、ジムが注射を首元に打つには牛の動きを封じ込める必要がありました。それには牛の体を牛 舎の仕切りに二人で押し付け、更に私が牛の尻尾を根元から上にあげ、ジムは牛の鼻に指を突っ込んで上にあげるのです。私が準備のために軍手をはめると素手でやれと言うではありませんか。牛を牛舎の仕切りに身体で強引に押し付けるのにも抵抗感があるのに、ましてやもろに尻尾を握るなんて絶対出来ません。すると“軍手を使えばいずれかはぼろぼろになるが、素手なら洗えばすむ事”と簡単にあしらわれたのです。このときほど健康のために農業を手伝わせてくださいなどと余計な事を言わなければよかったと後悔しました。でもこの二つの苦い経験は結婚後、赤ん坊の排便をかた付けたりするのに何の抵抗感もなく、まさにあの時の予防注射の経験があったからこそ、と言えるでしょう。
結論として農業をやらないと心に誓ったのは、夜の9:00近くまでジムが運転するトラクターに取り付けた農機具の上に乗り、“チン、チン”とチャイムがなるたびに男爵芋の小ポテトを植えた経験からです。これを三晩もやると空しくなり、更に後日収穫もあと一週間たらずという時期に豪雨とともに、見た事もないゴルフボール大の雹が叩きつけて地表を覆い尽くし、収穫ゼロとなったときの落胆した気持ちは忘れることが出来ません。よほど収穫の喜びや感謝の気持ち、そして自然に対して寛容であり、自然と共に生きる喜びがなければ農業は無理ではないかと思いました。私もこの英国留学中の3年間、収穫を経験したこともありその喜びはひとしおで、達成感と何ともいえない満足感を味わいました。まさにその喜びが何ものにも変えがたいと感じられる人が本当の農夫の条件ではないかと思います。
付け加えおきたい出来事は口蹄病(foot and mouth disease)も経験して牛全頭を焼却した事、また豚の去勢に立ち合わされ、獣医が投げ捨てた豚の睾丸から湯気が立つの を見たときには、その晩食事が喉を通りませんでした。
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ナッシュ宅での体験(3)
ある夕暮れ時、ジムと近所のパブ(全土にある英国の代表的酒場)へおもむきサイ ダー(英国では有名なリンゴ酒)を一パイント(約500cc)飲んで、彼は自動車でそのまま買い物にでかけ私はパブがナッシュ宅の近くだったので、夕食に遅れないように徒歩で帰ることにしました。たまたま他の農場主の土地を横切れば近道になると知っていたので足を踏み入れた所、薄暗くなりつつあった約50メートル左前方に、ぼんやりと“牛かな”と思える物体を確認し目を離さず横切り始めると、片方の足で土を蹴るのが見え首も下げたではないですか。“やられる”と思った瞬間怒涛のごとく、600Kgはあろうかと思える立派な角がある牡牛がまっしぐらに追いかけてきました。必死で逃げて角に引っ掛けられる寸前に川岸まで来て水に飛び込んで命拾いをしました。彼の縄張りを侵したかもしれませんが牛と戦えない自分の非力と、なぜ牛に馬鹿にされなければならないかと思うと、情けない気持ちで一杯でした。今ではただのハプニングでごく自然に受け入れられますが、当時18歳だった私は大変複雑な気持ちでした。
前回の続きとして農場における子羊と子牛の去勢についても書いておきたいと思います。都会に住んでいるとこの問題の重大性がなかなか理解されませんが、インターネットを見ていただければ農場で動物を扱う場合、どうしても避けては通れない残虐性があることを分かっていただけるかと思います。当時の英国では子豚については摘出すると申し上げました。後ろ足を持ち上げ逆さにして去勢するのですが、子豚は“ヒーヒー”といって大声で叫びます。獣医の腿を噛みついた子豚もいました。子羊と子牛については去勢器で精子を排出するパイプを切断し精子が放出しないようにするのです。従って切り落とすのではなく、人力コンプレッサー(人力圧縮機)で睾丸と性器をつないでいるパイプを潰すのです。子羊の場合、普通“メーエーメーエー”と叫びますがこの時だけは違います。口をぐっと閉じて“ムーー”といって耐えているのです。“ブス・ブス”という切断音を聞くとその残虐性を目のあたりにしてやめてほしいと思っても、人間の生活向上のためには必ず実行します。ちなみに英国では羊のローストはお客様への最高のおもてなしで、交尾をしない羊が軟らかい肉を提供できるからです。
長い歴史上、ヨーロッパや中近東において何千年ものあいだ国家間の闘争が絶えない今日まで、また狩猟民族であり肉食中心の欧米人にとって、冗談にも日本のコントやお笑い芸人が頭を小突いたり、冗談で股間を蹴たりして笑いのねたにすることは、彼等にとって信じがたい事だと思います。日本では報道がまずありませんが、民族や国家間の紛争に必ずついてまわるのが性別を問わず性的虐待です。それは純血をストップさせる重大な問題であり、従ってコントの種にならないのがお分かりいただけるかと思います。
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ナッシュ宅での体験(4)
ナッシュ家族の日常生活ですが、6:30頃が起床で7:00頃が朝食でした。勿論アリスやロバートが冬休みでも、朝食時間には家族全員が起きてきます。昼はまちまちでしたが、晩はいつも全員一緒で食事をしました。食事時の会話はたいがい農場のこと、政治のことそして特に夫婦の専門である医療のことに集中していたと言えるでしょう。農場のことは情報交換程度でしたが、こと政治や医療についてはいつも食卓の雰囲気が緊迫していて、夫婦でもこれだけもめるのだから、家に持ち込んではいけ ない話題なのかなといつも考えさせられました。専門分野の話題が多く、内容を真に理解するには大変でした。ナッシュ外科博士は後日知りましたが、英国で5本の指に入る外科技術を有し、学生の頃ケンブリッジ大学医学部を首席で卒業した大変優秀なお医者様だったようです。私がお世話になった3年間の休日で本当にお話しできた機会は限定されていて、博士は南アフリカに一年、その後は中国へ一年、それぞれの国の要請で外科技術を伝授しに旅立たれていました。初めての冬休みにお話させていただいて驚いたのが、鳥は雑菌が多く生で食してはいけないこと、また日本では焼鳥屋でなぜ魚の生物を食べさせるのか衛生上の問題を指摘されました。ナッシュ博士は外科技術を伝授するために日本にも滞在経験があったのです。
食事に関することはノラ婦人から丁寧に教わりました。まずおかわりの時に“お腹が一杯です”という場合“I am full”と普通言いますが、英国ではこれは大変失礼だそうです。“I had enough”と言い、“充分いただきました”が正解と言われました。“お腹が一杯です”は“もういいです”と言う意味も含まれ、必ずしも食事の内容に満足したとは言えないとの解説でした。食卓で4人座った場合4隅にワイングラスが出ますが、右上が自分のグラスで左上は左の人のグラスであることも教わりました。口に食べ物を入れたらフォーク、ナイフは置いてがつがつと次の肉を切らないこ とも注意されました。口に食べ物が入っている場合も呑み込むまで話さない、つまりマナーとは食事を一緒にしている人たちに不快感を与えないことを守ることで、ワインを飲むような場合でもまず口を拭いて口についた油や唇のあとをグラスにのこさないようにともアドバイスされました。当時フランス人はスープ皿に残ったスープをパンで綺麗に、いかにもなめたようにふき取りパンを食べていましたが、これも英国では禁物だったようです。この経験は社会人になってから日本のアメリカ大使が主催された晩餐会に出席したときやらアメリカ・イギリスの知識人との食事会等の時に自信をもって良いマナーを即実践できました。
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日本で通用しても世界では非常識
世界がますます狭くなり、グローバルにいろいろな国の方々と対等に接しなければ生きていけない時代を踏まえ、もう少しマナー全般と英語力について触れておきたいと思います。食事のマナーについては55話の“ナッシュ宅での体験(4)”と24話の“ウィスコンシン州キャンプの思い出”の中で簡単に述べました。“フォークやナイフを決められた作法で使わなければならない”という狭い範疇で申し上げたわけではなく他人を不快にさせないという最低限のマナーを守ると言うことなのです。さらに近年よく見かけるのはフォークやナイフで自分のいいたい事を表現している光景です が、これもルール違反です。
また、自己コントロールのきかない子供や赤ん坊をレストランに連れて行き騒音で他のお客さんに迷惑をかけることも先進国の教養ある人々の間では考えられません。旅先であれば、ルームサービスを使うことが一般的で、部屋で家族揃っての団欒を楽しむのが常識です。そしてこの間に子供を躾けることが先決ではないでしょうか。
飲酒についても一言書いておきたいと思います。カクテルは近年少しずつどこへ行っても普及しはじめました。本来は邪道でそれぞれの特色あるお酒の香りや風味を楽しむのが本当です。正式の場に招待されカクテルの準備がなければ要求しないのがマナーでしょう。また、ウイスキーは水でわらないことです。別々に飲むか、割るのであればソーダ割です。水割りはウイスキーの風味が損なわれ、何のウイスキーを飲んでも変わらなくなるからです。従って高級ウイスキーをオーダーして薄めたいときはクラブソーダか、オンザロックか、ストレートと別にコップに水をいただくかのどれかでしょう。
英語力については日本の高校を卒業すると日本語なまりの英会話になってしまい、綺麗な発音は無理と思っていました。ところが留学援助の会社を経営していた頃、初歩的な英語力しかなかった二期生の神田君という若者はアメリカ留学一年修了時にネイティブとまったく変わらない発音で会話をしていたのです。彼はアメリカ人社会で認めてもらうための努力を怠りませんでしたし、アメリカ人は彼を心から受け入れていました。外国で認められ、対等に渡り合える秘訣は“冗談を交えながら英語を正確に発音できる”と言い切っても過言ではありません。
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ナッシュ宅での体験(5)
1967年1月、私が冬休み中、スイスへのスキー旅行から帰るとナッシュ博士はすでにローデシア(現在のジンバブェ・南部アフリカに位置します)へ外科技術伝授のため、一年の予定で出発されていました。帰国後半年もしないうちに1968年の夏、今度は同じ目的で中国に出向きました。自分達だけがただ幸せであればいいのではない。自分の特技が国民のためそして世界の人々の役に立てば地の果てまでも行くという精神はセントジョセフ時代の回想にありましたが、とても立派な行いだと思います。この態度を見ているナッシュ博士の子供達にどれだけの好印象と誇りを持たせたかを考えると、人類の進歩の源はやはり家庭であり、教育そのものであることを、強 く印象付けられました。
ナッシュ宅では博士の実践した行動だけに留まりませんでした。春になるとナッシュ博士が大切に手入れしていた英国庭園と自宅を毎年一般に開放していたのです。いわゆるオープンハウスです。ローカル新聞には広告を無料で掲載させていただき立派な庭園を大きくアピールし自宅も400年の歴史ある石造りの農家であることを伝えたのです。拝観料は10シリングだったと思いますが、収益金は全部恵まれない子供の公的施設に寄付する仕組みになっていました。毎日20人以上の人々が訪れ、ゆっくりとした時間を過ごし庭園と建物を見学した後は紅茶とビスケットがふるまわれましたが、接客には主にノラ博士とアリスが担当しました。会計係は私が受持ち、自宅の玄関前に机と椅子を設置してお客様が来るたびに立ち上がり挨拶・集金・お礼と拝観場所を丁寧に案内しました。
英国留学を終え日本へ帰国したある日のこと、両親は私が農場で休まず働いたこと、そしてオープンハウスの接客態度をノラ博士が高く評価していて、息子のように預かりますと手紙で伝えてくださったと教えてくれました。振り返ると留学二年目、スイスのスキー旅行から帰ったときの心こもる抱擁と大きな頬へのキスは、人の善意の表れとして私は生まれて初めて心で感じ取った時だったと思います。
こんなに立派で申し分のない家庭でしたが、数年後異変が起こると誰が予想したでしょうか。両親の存在がいかに大切か、この2年間ナッシュ博士の不在が招いた悲し い結果については後日、英国留学のまとめを書く時に触れてみたいと思います。
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待ちに待ったスイスへのスキー旅行(1)
留学先のアボッツホルムスクールが企画した11泊12日のスイススキー旅行に3年間総ての冬休みに参加しました。幸いにも、以前紹介した友人のアレン・ローズが初級者として、一緒でしたので大変楽しい旅行になりました。彼も3年間一緒に参加し、毎回同室でした。このアルペンリゾート, サース・フェー(Saas Fee)はスイスの東南東に位置し、サース・フェ−の西南にはマッターホーン(Matterhorn)で知られるツェルマット(Zermatt)があります。出発点はロンドンのビクトリア駅で、かの有名なアガサ・クリスティーの代表作にでてくるオリエント急行に乗ってドーバー海峡まで行き、そこからヨーロッパに渡りまた夜行列車でスイスのブリッグ(Brigg)に到着すると、そこからは更に約1時間程バスに揺られて標高1,800mのサース・フェ−となります。夜行列車に乗っている最中、国境を越えるたびにパスポートを点検にきた各国の公務員が印象的でした。列車は国境を越えるとき一時的に停車して、公務員が乗り込んできますがすぐ動き出すわけですから彼らはいったいどこで降りるのか不思議でなりませんでした。私の知る限りでは、普通、乗客が列車から一度降りて一列に並び一人一人が入国審査をしなければならないだろうと考えていたからです。
さて、サース・フェ−ですが、町並みが、それは綺麗で、まるでマッチ箱で整然と創られている印象を受けました。町の外に車を止め街中は乗り物が一斉禁止でしたので、通行に神経を使う必要が無く旅行客への配慮が行き届いているなと思いました。我々は生徒でしたので、ホテルではなく木造の民宿でしたが、各部屋はすべてセントラルヒーティングになっていて設備は立派で近代的でした。ベッドも木造でしっかりとしていて、横になると太ももから足先までが上に傾斜していて足の疲れをとるように工夫されていると教えられました。確かにスキーから帰った翌朝、足からくる疲労感を感じませんでした。
民宿での一泊目、夕食にウイーナーシュニッツル(子牛のカツレツ)を初めていただきましたが、この美味しさは天下一品で一生忘れないでしょう。日本へ帰国して同じ味を出しているのが横浜のニューグランドホテルで、今でも昔懐かしくなると食事に行きます。次回はスキー場での出来事について書いてみます。
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待ちに待ったスイスへのスキー旅行(2)
朝食と夕食の時間を守れば、6年生(six former 17歳)以上は自由行動がほぼ許されました。スキー旅行には体育の先生、デリック・スィーダマンと夫人が毎年引率してく ださり、感謝しています。朝食を終え8:00時に民宿を出ると我々の中級スキーヤーには民宿主でインストラクターの、ピーターが午前と、昼食休憩一時間をはさんで午後2:00までの5時間、レッスンを実施してくださいました。その後はサースフェー最長のゴンドラが停止する3:30分まで自由時間となります。一番長いコースは9km、標高差約1,700mでいささか驚きました。それは日本で経験したスキー場の倍以上のコースだったからです。このゲレンデを下る途中にはつり橋のコースがあったり、上級者 コースがパウダースノーだったりと変化に富み9km下るのに当初は45分もかかりました。それが10日間のレッスンを受けると、最終日には17分程度で下りてくるまでに上達しました。アレンと私は毎日スキー場で、最終的には初心者用のティーバーが終了するまで目一杯滑った後、民宿で夕食が終わると真っ先にホテルのバーにくりだし踊りに行きました。どこへ行っても各国からのスキー客であふれ互いの交流が始まれば、楽しい情報交換の場に変身しました。南半球のオーストラリアから遊びに来ていた人達は、地元が夏なので清涼とアルペンリゾートの自然を求めてスキーを楽しみに来ていました。ホテルバーはどこもバンドが入っていて全員参加のメロディーが流れると、お互いの肩に後ろから両手を乗せ、ダンスフロアーはスキーヤーが入り乱れ、大騒ぎでした。後日アメリカ留学中に遊びに行った有名スキーリゾートでは、スイスのように楽しかった経験は皆無でした。ヨーロッパのスキー場は目玉です!スキー以外でもいくらも楽しめて、一生の思い出になる事を請け負います。更に年齢的なことも関係ありません。欧州人は60歳になっても遊びは大変上手で、社会全般が楽しむのは当然と受け止めているからだと思います。参加する我々がその環境と雰囲気に順応できるかだけではないでしょうか。言葉のバリアもまったく問題ありません。手まね・動作でいかようにも相手に自分の思いを伝達できます。誰もが楽しみにきているのですから気を使う必要はありませんし、気持だけで人と接する事は絶対可能だと思います。
ホテルバーが午前2:00に終わると、バーで知り合った数名の同年齢のフランス人生徒と先生を彼女らの借りているシャレー(アパートタイプの2階建て一軒家)まで送っていくのですが、酔い覚ましにコーヒーを飲んでいきなさいといわれて、話し込むうちに民宿に帰る時間は毎朝4:00頃でした。でもこの間、随分とフランス人のことを学び取ったと思います。
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待ちに待ったスイスへのスキー旅行(3)
ヨーロッパのスキー場では当時夕食時に女性はドレス、男性はタクシードでなければ入れませんというホテルがいくつもあって映画俳優を含む有名人が多く遊びにきていたようです。サース・フェーでは服を指定するホテルが一軒もなく、大変キャジュアルでしたので若いスキー客が多かったのだと思います。先生を含むフランス人グループの一行は、この後3年連続スキー場で偶然会うことになります。毎年同じシャレーに泊まった彼女達は自炊ですから半日寝ていてもいいわけで、2年目に会った時は酒を一緒に飲んで踊った後はシャレーまで送るだけでコーヒーをいただかず帰りました。一年目の10日間は睡眠時間が毎日3時間から3時間半、一日スキーをしてその後 は夜な夜な町にくりだして朝帰りを繰り返したわけです。あの時の体力はなんだったのか、いまさらながら驚かされます。
スイスではドイツ料理に近く、食事はバラエティーに富んだ肉料理だったため、体力維持に本当に助かりました。加工された肉は各種ソーセージだけではなく、血を脂身で固めたサラミや、牛の心臓を腐らせる寸前にスモークした、とても美味しかったソーセージ。また、チーズフォンディューもチーズ味がなんとも言えず最高でした。晴れわたったラングフルー(Langfluh)山頂のレストランで英国の友人達と共に初めて食べたフォンデューはこれからも忘れる事はないでしょう。またその時一緒に、これも飲んだことのない温かいワイン!美味しかったし身体のほてりは今でもその時の感触は残っています。グリューヴァイン(Gluvine)と言って赤ワインを温めその中にアーブ(herbハーブとは発音しません)、蜂蜜、オレンジの輪切りなどを入れていただくのです。衣服ついていえば、民族衣装の中でもスキーセーターはスイス独特の色と織り方で、女性は必ず一着ほしくなるメルヘンチックな出来栄えだったと記憶しています。
こんな楽しい思い出を胸一杯に秘め、一年目のスイススキーは終了しました。サース・フェーからブリッグに戻ると電車待ちが2時間程あり、アレンと食事をしに町へとくりだしましたが、食事が終わる前に電車の出発時間がきてしまい走って駅に帰りました。レストランに父が留学する時、贈ってくれた大切な腕時計を忘れてしまったのに気づいた時にはもう戻れる時間がありませんでした。無いのを覚悟で翌年同じレストランへ行くと、保存してくれていたではないですか。なんと正直な国民性か本当に感動しましたし、感謝しました。
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スキー遠征を終えナッシュ宅へ
スキー旅行から帰りナッシュ宅に戻るとノラ博士が私を見るなり、心配して体重を量るように勧めました。約2ストーン(stone石の単位)、1ストーンは14ポンド、1ポンドは約454グラムですから、約12キロ減ったことになります。すぐ精密検査をうけましょうということで、帰宅した次ぎの日に病院に連れて行かれて診察していただきましたが、異常はまったく見つかりませんでした。親代わりとしての気遣いを思うと、心から感謝しました。
ナッシュ宅の長女がハネムーンから帰っていて、食事時ハンガリーでのホームスティについて話してくれました。ハンガリーでは出された食事は総て食さず、残さないとホストファミリーに失礼になると聞き二度驚きました。総て食べるとホスト側が充分な食事を与えなかったことになるそうで、それを知らず次々と出る食事を気持ち悪くなるまで食べてしまったようです。お国が変わればマナーも変わる、何でも前もって聞いておく事が大切だなぁと思いました。そしてその晩、家族の映画会が始まりました。ナッシュ博士が第二次世界大戦の終結した1945年に、次女アリスの3歳の頃を撮った家庭用8mmを見させていただきましたが、カラーであったことに仰天しました。本当に若者は頭が柔軟なうちに、どんどん世界を見なければいけないと思いました。
さて、ここで日本の慣習にまつわるエピソードを一つ紹介しておきましょう。父から私宛に手紙が届いていました。当時、高校留学生には外貨の割当がなく国のミスで私はイギリスへ来たと知らされました。父は早速、知り合いを通じて伊藤さんという代議士に連絡を取ってもらうと即、日銀総裁に電話を入れて下さり外貨の割当を都合して頂いたようです。あの時代から約40年経ちますが、今も日本の社会構造や体質はあまり変わらないように思えます。
帰宅して、数日後一つの変化に気付きました。生活が乱れ始めていたのです。ナッシュ博士はすでにローデシアに出発された後で、アリスそしてロバートはいつも10時頃まで寝ていました。ジムと私がお茶の時間に帰ってきてもまだ朝食を食べていません。そのうちにロバートは髪すら切らなくなり、肩までかかるほどで、後日これは家族内で大問題になります。アボッツホルムでは一応髪は肩に触れるぐらいまでは許されていましたが、制服はありました。高校2年生以上はツイードの薄緑のジャケッ ト、薄茶のコットンシャツとグレーの長ズボンで、高2生以下はズボンだけ違って茶色でコリュロイドの半ズボンでした。
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1967年1月いざ春学期へ(1)
この時期はすでにスポーツで知り合った数名の友人と、生活面で本当に率直に話ができる英国人もいましたので日常の寮生活と勉強で困り果てることはなくなりました。留学生にとってもう一つ重大な関心事は海外で一人病気にかかることです。幸いにもイギリスで一度も病気にかかりませんでしたが、リュウマチ熱の経験から病気からくる心細さはよく心得ていましたし、後に留学援助業務に携わった時にも、学生の中には病気が原因で一時帰国を余儀なくされたりした者もいたからです。英国政府が実施していた厚生保障が手厚く、(当時は揺りかごから墓場までと言われていた)毎年一回は無料の身体検査を受けられました。外国人も例外ではなく、私も学校の医務室で毎年健康診断を受けました。当時日本における学校の身体検査は可も不可も無く一通りの検査でしたが、イギリスでは男子校でしたので、男性としての正常機能も調べられました。一番いやだった検査ですが、パンツを下ろして医者が睾丸を摘み生徒に咳をさせます。触れた感触で睾丸が精巣に一つとか、まったく無かった生徒もいたことが忘れられません。生まれて数日間に睾丸が精巣に無事落ちたか途中パイプにひっかかったままだったかだそうです。咳をさせる事によってヘルニヤの可能性を調べその兆候があれば精密検査が行われました。中には睾丸が三個あって医師の判断でたぶん脂肪のかたまりだろうと言うことで、病院へ行かされた生徒もいました。本当に生徒の健康を真剣に考えて実施していて、嫌でしたが安心していられました。
春学期は“O”レベルの受験準備のほかに、学校独自の社会科授業としてロンドンの国会内部の見学や、学校の映写室で原爆がもたらす現象など、“war game”「戦争ゲーム」という映画を見せて教育されました。国会では保守党と労働党が向かい合うように議員席に座るのですが、双方の最前列に白線が引いてあります。どういう意味か聞くと、国会議員は市民の見本でなくてはならず、知性と理性のある国民代表なのでどんなに頭に血が上っても白線を越えて相手に詰め寄ってはならないと聞きました。乱闘騒ぎなどはもってのほかで、そういう議員は誰からも尊敬されないと言われ、議会政治の成熟度を感じずにはいられませんでした。「戦争ゲーム」は途中私だけが吐き気を模様してトイレに飛び込みました。
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1967年いざ春学期へ(2)
前回「戦争ゲーム」の映画を学校で見て、気分が悪くなったと申しました。原爆の超高温で一瞬にして消えてしまう人々、嵐のような爆風、何日も続く真っ黒な雨、死体の山、被爆者のただれた皮膚等などです。私はあの惨事を学校が責任を持って生徒に見せられる勇気は、学校がそれまで実践してきた教育の過程で、危険な世界情勢の不均衡を認識し、理解したうえで学校教育を民主的に進めていたからだと考えます。つまり政治的・人種的・植民地化等の問題においては、生徒に時間を十分与え討論させていたからです。従って「戦争ゲーム」を上映しても高校2年生以上であれば(高一で日本の高校生の勉強を終えています)現実を知るに耐えられるだけのバランスのとれた教育をすでに与えてきたという自負と誇りが学校にあったからだと考えました。あの映像から受ける恐怖心、たんたんと語られるナレーションそしてBGM効果は、気持的に受け止め切れない程の内容だったと思いますが、戦争を基本的に正当化してはならないという抑止力につながったと思いますし、真実を知り正しく判断する事の重要性を誰もが認識したことでしょう。多くの国を植民地化して何百年にもわたり国々を支配してきたイギリスの歴史。他民族を意のままにコントロールすることの難しさ。そして利益のための闘争さらにはまた支配。この繰り返しを経験してきたノウハウは、善悪を別にして鎖国を続けてきた日本とは比較にならないと思いました。当時アボッツホルムの生徒達が一番実感できた政治的社会的問題は南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)とその地域の混乱した歴史的背景でした。
エジンバラ公のサバイバル教育では4月初旬ウェールズ地方の丘を地図・コンパス・2名用テントと携帯食を持参して、3泊4日で地図に示された拠点を10名一組で回る事でした。一日の歩行距離は20マイル約32キロです。4日目の午後一番に街中に着く予定でしたが、季節外れの大雪が降り4日目の晩はまだ町からは約10マイル16キロ離れた丘にいました。4月のウェールズはまだ夜間が寒いので厚着を持っていったのが幸いしました。強風を避けるために石垣(フェンス)のすぐ下にテントを張ったのですが、翌日テントの下を水が流れていて凍える思いで朝4:00に目を覚ましました。最後に残ったビーンズの缶詰1缶を食べ、下山を急ぎました。昼頃町に着くと先生の待機していた学校の別荘(villaビラー)に連絡しましたが、全員寒さと空腹感でサンドイッチとビールを18歳以上の生徒がパブで買い食べている最中、大型バンに乗ったディーン先生がくるのが見えたので全員ビールをかくしました。先生は飲んでいるのを知っていたと思いますが、黙認してくれ、道路脇に置いたビールをそっと拾い上げ全員バンのうしろに乗り込みました。
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初めての春休みアレン・ローズ宅で
イギリス人の家庭でもナッシュ宅とローズ宅ではかなりの違いがありました。両家とも父親を中心とした家族としての威厳は感じましたが、ローズ宅は家族全体がリラックスしていて、ナッシュ宅ほどの緊張感はありませんでした。夫婦の間柄がかもし出す家族全体の空気が違ったのだろうと思います。お父さんは獣医で、家族全員を信じて任せているという印象で、とてもマイルドで誰もが自由、楽しく自分自身を気軽に表現していました。
他の英国人家族では目にしませんでしたが、父親がキッチンに入ったのはアレンのお父さんだけで、レストランでも始められるほど美味しい自家製のレバーペーストをふるまっていただきました。ローズ家では、すでに結婚している兄弟やその家族全員ができる限り毎週末実家に集合して、大西洋を渡りアメリカへ行くためのヨットを手作りで製造していました。ヨットは艇長約42フィート、13メートル弱ですが、すでに一年近くかけて皆が協力していたのです。物造りはイギリスではあたりまえで、生物学のナイト先生もテレビを組み立て、後日番組を見せて頂きました。ローズ宅は家や家具も総て先祖からのもので、お父さんはテーブルの傷跡の歴史について心を込めて話してくれました。日本では家は新築して30年もすると価値がまったく無くなりますが、古いものに誇りと歴史を重んじると言っていたアレンのお父さんの言葉は印象的で、又根気の良さと物を大切にする国民性には大変感心させられました。アレンとは今でも文通していますが、自家製のヨットで大西洋を渡ったそうで、日本で失いつつある家族の絆について考えさせられました。
ローズ家では家族の絆とかコミュニケーションを大切にしていたのはヨット造りだけではありません。汗を流した週末は大晩餐会となり、生活の事やヨットの製作の意見交換でなごやかな雰囲気にいつもつつまれました。食事では主食のローストビーフをテーブルで切るのは父親の役割です。また、長いテーブルの両サイドに座るのはヘッドテーブルが父親反対側は常に母親で、これはどこの家庭でも同じでした。ローズ家はお酒も多いに飲み食前酒のシェリーから始まり魚料理では白ワイン、肉料理では赤ワインそして食事が終わると会員制クラブにでかけ、ブランデーを格式のある木製のクラブバーでたしなみ、一族の会話を多いに楽しみました。飲酒の量は腰を抜かすほどでしたが、乱れず人間としての威厳を保ちつつ、楽しむ飲み方はローズ家の父親に 教わりました。
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アボッツホルム留学・一年目の回想
一言でいえば自分が行動を起さなければ何も始まらないことが明確でした。そして未来のための1歩を踏み出すとき、最も大切な事ははっきりとした目的と理由があって、且つ自分の意思と要望で留学をすることだと思います。親は子供のおかれている現実と将来の話に注視し、今まで構築してきた親子関係において子供の今までの経験や成長過程を信じ、経済的に実現可能であればバックアップしてあげていただきたいと願っています。子供の将来に対する本人の決断は人間的成長と自分に対する自信に最も役立つと信じて疑いません。本人が本当にしたい事を、途中断固ギブアップすること無く貫きとうさせる事が大人になるための一番大切な社会体験ではないでしょうか。教育は男女隔たり無く公平に成されるべきである事も付け加えておきたいと思います。
生活が安定してきて自信がつき始めると積極性が違ってきました。春先からはテニスを始め学校のチームに加わり新しい友人もできましたし、学校側は私の行動に責任ありと認定し、ネクタイを赤にグレードアップしました。この時期“O”レベルにチャレンジする前向きな気持ちが芽生え始めました。生活の歯車は確実にプラス方向に動き始めた事は私自身が一番気付いていました。”O”レベルではAとかBの成績がいただけませんでしたが、商業(commerce)、数学(pure & applied math)、ドイツ語(German)、物理(physics), そして木工(woodwork)でどうにか合格しました。成績の内容ではなく、統一試験に受かったことに勇気付けられたことは間違いありません。この年驚いた事は16歳の生徒でヒースという年齢的には高校一年生、英国では5年生の生徒が6年生の二年間で取る”A” レベル5科目をすべてAで合格してオックスフォード大学に入学を認められたことでした。14歳の中2で”O” レベルを終了して資格をとっていたようです。英国には能力によって飛び級制度がありますが、大学入 学は18歳でないと入学許可されないため、2年間好きな事ができると聞きました。英国の教育制度では学校へ行く必要はありません。自宅学習では社会性とか社交性が身につくとは到底思えませんが、どんな状況下においても教育の自由は約束されていることになります。統一試験に受かり大学教授数名との面接に合格すれば教育を受ける権利は保証されているわけです。
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留学二年目の試練
一年目の終了時、1967年の6月上旬からはナッシュ宅で農業を手伝いながら夏を過ごし、二年目が始まる9月上旬に学校に戻りました。Aレベルでは数学2教科、物理と自分の母国語を忘れないように日本語、そしてOレベルではチョウサーのカンタベリー物語です。その他英語力強化のため英語の先生にマンツーマンで教わり、Cambridge first certificateに挑戦しましたが、日本語は別にして専門的な語彙力が不足していて大混乱しました。例えば数学ではサイン(sine)コサイン(cosine)にはなじみがありましたが、双曲線関数でもシャイン(shine)やコシャイン(coshine)は初めてで戸惑った事は言うまでもありません。また、チョーサーのカンタベリー物語では、まだ英語が正しく綴られていない1387年頃の英語で、英語が読めないのが実状でした。数学や物理は参考書を日本から送っていただきましたが、これは絶対やってはいけないことだと、だいぶ後になって気付きました。英語で授業を受けているわけですから、やはり英語での理解で進めるべきでした。日本語に訳しているとある意味で安心感がありましたが、いずれにしても分からない事は、日本語で読んでも同じで説明が無ければ分かりません。当時は随分無駄な時間を過ごしてしまったように思います。しかしながら、この時の経験は大学入学後の大切な教訓になりました。特に大学一年時細菌学を受講した際スタッフロコッカス(staphylococcus)や、もろもろの細菌を日本語の参考書を一切使用せず、英語で十分に理解できたからです。
12月になり秋学期終了前Cambridge first certificateの試験を受けましたが、聴解力・読解力・文書力では合格したものの、単語力不足で英語検定試験全体としては落ちてしまったのです。英語の勉強はあきらめず1968年の春学期にもう一度受け直して無事合格しましたが、Aレベルのしんどい勉強の事を考えたとき、カンタベリー物語は12月で落とす事を先生と相談の上決めました。クラスの選び方や教科数、こんな小さな事でも初めから先生とよく話し合い、カウンセリングを学期前に充分受ける事の大切さを身にしみましたが、すでに一学期が過ぎてしまった事も事実でした。この頃すでに自分が理科系に向いているのか問いただすようになっていました。勉強は充分しているものの成績が上がらないのが現実でした。
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進学と大学での専攻
米国の大学に進学する場合、大半の州立大学は入学前年の11月までに願書ともろもろの書類を提出する必要がありました。私の場合Aレベルを1969年の春に受けその年の9 月米国大学入学志望ですから願書、推薦状、そして成績の内定は先生たちがどう私の実力を見込むかにかかっていて、1968年の遅くとも10月初旬には志望大学に送付する必要があったわけです。英国留学2年目の一学期、つまり1967年9月から翌年1968年1月の一学期終了時についてはAレベルで戸惑っていて、大学へ進学はしたいものの専攻をどうするべきか見当がつきませんでした。
私が長男で父の仕事を将来引き継ぐ場合、理科系専攻があたりまえと考えていましたが、幸いにも米国大学では入学時に専攻を決める必要がありませんでした。勿論専攻が決まっていればそれはそれで問題はないのですが、大学の当初2年間は一般教養を幅広く気に入った教科を選び、授業をとってみて本当に興味が持て、自分が打ち込める専門を選択できる仕組みになっていました。従って専攻を決めるのは2年終了時でよかったのです。米国ではliberal art collegeと言って、大学は学生に対して専門的な狭い範囲で勉強させるのではなく、幅広く教養を持たせることが重要と考えていて、米国内の企業の要求も一致していました。本当の専門職を希望する企業は主に修士課程卒を採用していたのです。
当時はそれでも理科系以外に考えていませんでしたので、2年目の二学期も悪戦苦闘していましたが、努力は怠りませんでした。2年終了時に父と母が学校を訪ねてくれ、一緒にヨーロッパ旅行をしましたが、これはどれだけ私の励みになり、勇気と元気を与えてくれたか想像していただけると思います。イギリスには夏休み中にヨーロッパから戻りましたが、やはり先々の事が心配でロンドン滞在中、米国大学の入学に必要な英語の実力テスト、トーフェル(TOEFL)を受験し、また自分にはなにが向いているのか、職業適性試験を受けてみました。TOEFLは大学院へも行けるだけの成績を修めましたが、職業適性試験は丸一日かけて受けたにもかかわらず、自分が考えてみた事もないインテリアーデザイナーが適性と診断されたのです。イギリス政府機関の最先端の試験でしたので、泣くに泣けず半分あきれましたが、この時初めて“双肩に感じていた期待の荷”がいくらかとれたような、そんな気持ちでした。
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1968年春、二年目終了時の両親との再会
1968年、二年目が終了した時点で両親とはロンドンで再会しました。喜びの気持ちを出来るだけ表に出さないように抑制していたことを今でも鮮明に思い出します。ナッシュ宅への表敬訪問やアボッツホルムへもつれて行き、私の主な生活拠点を紹介しました。学校はすでに夏休みだったので、先生方は数名しかおらず生徒は誰一人としていませんでした。寮長ボズウエル先生やナイト先生に会っていただき、まずは寮生活と飾りっけのない寒々とした寮内部を見せました。次に赤レンガの、歩くと床がみしみしときしむ音をたてるメイン校舎の内部や校舎2階から遠く見渡せる芝生造りのラグビー・クリケット・ホッケー競技場。そしてテニスコート、屋外20メートルプール、医務室、勉強部屋、図書館、食堂、体育館へも連れて歩きました。父は“嵐が丘”の映画を日本で見ていて“いやーこれは正に嵐が丘だ”と言って景色に見入っていました。最後に教会へ行きそこで今まで励んできた2年間のピアノの成果を是非聞いてもらいたいと考えたのです。スタインウェイーのグランドピアノの前に座り、ベートーベンのムーンライト・ソナタを楽譜なしで弾いて見せ喜んでもらうはずでしたが、母の様子がおかしいのに気付きました。私も人生の経験を積んだある時点で初めて当時の自分の気持ちが分かりました。夢中でピアノに打ち込んだのは、勉強面や生活が大変で能率や集中力が落ちると自然にピアノに向かっていて気分転換をしていたのです。母は、私に里心をつけさせまいと涙をこらえていたのでしょう。両親を安心させるために私はAレベルの話を積極的に明るく説明したり、1968年の2学期目からは、更にプリーフェクト(青タイ)に昇級した事なども話しました。
いよいよ親子水入らずでヨーロッパ旅行に出かけるときがきました。主な訪問先はパリ、ルクセンブルグ、ブリユッセル、アムステルダム、ミュンヘン、ウイーン、ジュネーブ、ベネチア、ミラノ、フィレンツエ、ローマそしてバチカンです。ヨーロッパも石造りが主体の街並みで歴史を感じましたが、何よりも街並みを大切にしていて全体の建物が一定の高さを超えないように法律で定められていたり、建物に関連する一切の条件に原色の使用を禁止していました。ネオンの利用についても一定の条件があったようです。次回は記憶に残ったヨーロッパの街について歴史的背景を盛り込んで書いてみます。
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ヨーロッパ旅行の思い出(1)
ヨーロッパ旅行中、一番嬉しかったのは父がホテルの自室で固形燃料を使って飯盒炊飯を何回かしてくれた事です。留学してからの2年間、炊き立てご飯を一度も口にし たことはありませんでした。悲しいかな留学して1年半たった1967 年の12月、母から学校に“お米の缶詰”を送っていただいたと思っていたのですが、缶を開けてコチコチの“お米”をみて、“これ食べられないじゃないの”と思い込んで捨ててしまいました。そのことを両親に伝えると、“あれは餅”と言われて、なんでこんなことまで忘れてしまったのか本当にショックでした。
さて各国の印象ですが、特に気にかかった国はフランスでした。イギリスのヨーロッパに係わる歴史教科書の記述の中でフランスだけは注意深く、相手の国民の気持ちを逆なでしないように詳細にわたって書かれていたように記憶しています。
まずパリに入国して英語で何人かのパリッ子にいろいろな質問をしても、返ってくる答えは徹底してフランス語ででした。彼等は明らかに英語を理解しながら英語を話さないのです。こちらはある程度ドイツ語・フランス語・スペイン語に馴染んでいたのですぐにわかりました。相手が英語の質問に対してフランス語で答えれば、何と言っているか単語の内容で最小限理解できたからです。なぜこんなことになるのでしょう。私の知る限り歴史上、イギリスとの国家間の戦いやいざこざにおいて、結果的にはいつもフランスが敗れたからではないでしょうか。その始まりは1760年植民地の奪い合いで北アメリカのモントリオール、キュベック(French and Indian War)において敗退し,1805年タファルガー海戦でネルソン提督に敗れ、1815年フランスの英雄の一人であるボナパルト・ナポレオンがウォータールーの戦いでウェルズリー司令官(Duke of Wellington)に敗れ島流しで追放されました。最悪だったのは1940年、2次世界大戦初期においてドイツ軍に蹴散らされ、ダンケルクの海岸線に追いやられるのですがフランス軍が勇敢に戦い英国とフランス両軍の撤退に大きく貢献したのにもかかわらず、イギリス政府が35万人近くの軍人を救出船で、最悪の危機から脱出させたことが主力のニュースとして取り扱われたからです。世界大戦後フランスの大統領となった将軍ドゴールはイギリスのヨーロッパに対する政治的影響力を低下させるため、ヨーロッパ経済圏の共同体参加に強く反対しました。この歴史的一視点は今後のグローバル道の背景を理解する上でとても大切になるでしょう。
次回はそれぞれの訪問国について楽しく、でも興味深く書いてみたいと思います。
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ヨーロッパ旅行の思い出(2)
フランス人の英語に対する険悪感以外はパリを中心としたフランスの街づくりは本当に見事でした。エッフェル塔は1889年実施された万国博に国力と技術力を世界にアピールするために建てられた塔ですが、近辺に位置する凱旋門・コンコルド広場そして片道4車線もあるシャンゼリーゼ通りなどは、フランスの威厳を、訪れる者に意識させつつその美しい自然環境とマッチして、観光客の誰しもが楽しめる工夫が街全体に施されていると言えるでしょう。
宗教色の強烈だった中世暗黒時代に完成されたゴチック建築様式のノートラダム寺院と内装の美しいステインドグラス。ブルボン王朝の最盛期、ルイ14世がバロック建築の代表作として建てたヴェルサイユ宮殿。ダイニングテーブルに並べられてあったおびただしい量のフォーク、ナイフ、スプーンそしてワイングラスの数。いったい何時間かけて食事をしたのか想像もつきません。英国の大英博物館にも劣らない世界からの略奪品が納められていたルーブル美術館。フランスは自分達がおかれている国際社会と政治的影響力を念頭において、自らを誇示するためにきらびやかであり、且つ独創性の在る国作りに着手したのか、あるいはただ単に彼等の持つ感性だったのでしょうか。こんな事を特に意識させたのはフランスだけでした。次に訪れたルクセンブルグやブリユッセルにもゴチック様式の寺院や石造りの建物もいくらでもありましたが、他国を意識していたような印象は受けず、あぁ商業で栄えた街だというのが率直な感想でした。
アムステルダムは美しい花の街で観光が主要産業です。観光客を積極的にごまかそうとした街はたいがい観光が中心で、パリではタクシーの運転手が空港から遠回りしてホテルまで我々を乗せましたし、アムステルダムでは翌日の観光の予約をとりに旅行代理店へ行くと、アメリカ人観光客が大声を出して観光代金を返せとクレームをつけていました。どうも安いツアーを選んだために観光案内が総てオランダ語で何も分からなかったと怒っていたのです。代理店の担当者はクレームをはねつけ結局返金などは一切しませんでした。契約社会ですから、約款には必ず目を通し内容を理解することの大切さをこの一件で学びました。また、この後ドイツのミュンヘンやイタリヤのミラノへ行きますが、産業・商業が中心の街は現地の人が皆目的を持って歩いていますので、観光客を“鴨”の標的としているケースがほとんどありません。うろうろして、内容のない話しかけについても用心することにしました。
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ヨーロッパ旅行の思い出(3)
パリとアムステルダムの教訓は旅行の最終訪問地、ローマで大変役立ちました。観光に出かける時ホテルのフロントで、つい一週間前日本からきた新婚さんが言葉巧みにだまされてハネムーン初日のローマで所持金を総て巻き上げられ、一泊だけで日本への帰国を余儀なくされたと聞いたからです。ラテン系の人種はとかくおおげさなので総てを真に受けて聞いていたわけではありませんが、一日観光が終わった夕暮れ時“トレビの泉”前を親子で歩いていると、ネクタイなしの背広姿の中年男性が観光客用の地図を持って近づいてきました。ギリシャからの観光客と名乗っていましたが、仕事の関係で一日遅れて妻とローマで合流して、久しぶりに二人で旅行を楽しみにきたにもかかわらず、ホテルがどこなのか、我達に地図を見てほしいと言うのです。何故我々のような観光客にと思いつつ、反面互いに観光客同士と思えばこそ、目的のホテルを地図上で探そうと協力しましたが、結果見つけることができません。“英語のわかるタクシーを捜すことしかないですかね”と言って、すぐにきたタクシーを口笛で止めて、大声で英語が話せるか確かめました。また自分の目的地であるホテルも確認できると我々に、“これで何とか全部解決しました、本当に感謝しています。お礼に一杯おごりたいのですが”と最高の演技で誘ったのです。この巧妙な手口に誘われ気持ちはタクシーに乗る寸前でしたが、あまりにもタイミングが絶妙だったので“ちょっとまずいよ”と両親に言って“明日が早いので”と断りました。この件をホテルに帰ってフロントで聞いてみると、観光客を装ったギリシャ人、タクシー運転手、連れて行かれかけた飲み屋すべてがつるんでいるとのことでした。
実はこのギリシャ人観光客とタクシー運転手が翌日、親しく話し合っている現場を他の観光地で目撃しました。愕然として怒りの抗議をぶつけにつめよりましたが、最初こちらが誰かも認識できません。しかし、我々の事を思い出した瞬間、二人は逃げ出しました。
イタリアのダビンチ国際空港では英国で買った土産のお酒を税関係員が没収しようとしましたが、幾ばくかの賄賂をわたすと、いとも簡単に通関させました。20歳の私は目を疑いましたし、公務員の地に落ちた道徳観念には忘れられない驚きと失望を感じました。
イタリア国民の名誉のためにも付け加えておきたいのですが、多かれ少なかれどの国へ行っても官僚・公務員の怠慢・詐欺・汚職・その他国民や観光客を手玉にする違法行為の数々は必ずあります。観光地でしたがべェニスの人々、ルネサンス発祥地のフィレンツェ、工業地ミラノなどは、誰もが誇り高くユーモアに溢れ、心から親切であったのも事実だったことも付け加えておきます。
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ヨーロッパ旅行の思い出(4の1/2)
日本でも公務員・官僚・政治家の国民の納税に対する実質上の背任・詐欺は目を覆うものばかりですが、一言書いておきたい事は、これらの職を選んだ人達は公僕(Public Servant)であり、誇りを持って市民に奉仕し、そして国民からは尊敬される“崇高な職業としての位置付け”を、“自らが選んだ”大前提を忘れてはいけないということです。国民より一段と高い生活レベルを望み、裏で国民を欺くのは言語道断、許されるべきことでは断固ありません。私は国民の血税を、いかなる理由においても不正に使用すれば、実刑をもって処罰すべきだと考えます。それほど卑劣な行為と認識すべきだと思っています。天下り・談合・税金の無駄づかい・政治家と公務員そして官僚は一切節税する意志を見せない現在の構図は、どれだけ国民全体のモラル低下に繋がっているか計り知れません。
本題に戻したいと思いますがドイツではミュンヘンの他にケルンや当時の首都ボン、オーストリアはウィーンそしてインスブルック、スイスではジュネーブ、ユングフラウを観光しました。この三国は総てゲルマン系でドイツ語を主言語としていましたが、スイスだけはなまりがあったようです。例えば“ヒ”の発音は“シ”と言った具合です。どこの国も共通して言えたことは、大変働き者であるとの印象と、良く飲み生活を楽しんでいることでした。“お酒の楽しみのない生活は太陽のない生活と同じである”といってはばからない国民性。こんな言葉の発想を生き生きと感じずにはいられません。
ケルン大聖堂のゴチック建築は、ドイツ人を語る上で一番性格を現していると印象付けられました。建築物の彫刻は“これでもか”といわんばかりの詳細なこだわりや、高く直線的な男性的・宗教的なりりしさがありながら、“美しい”とは程遠い暗い大聖堂の全貌。“ヨーロッパの堅い職人芸”が私のイメージでした。ドイツでの一番楽しかった思い出はミュンヘンの有名なホフブラーハウスにビールを飲みに行ったときのことです。各国からの訪問客が一堂に会したような雰囲気で、私達が座った12人がけのテーブルには地元の人以外に少なくとも4ヶ国からの観光客がいました。とにかく情報交換の楽しかったこと、私の前にいたニュージーランドの女性は音楽にのってテーブルの上にあがり踊り始めました。かけ声や口笛でますますのりまくり大胆に踊りました。私はウェートレスが一リットルのジョッキ10杯を持ち運んでいる姿や、その場の雰囲気に圧倒され知らず知らずの内に考えもしなかったジョッキ10杯、10リッターのビールを飲み干し、翌日本当に後悔しました。
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ヨーロッパ旅行の思い出(4の2/2)
こんな楽しいドイツでも、一緒に飲みに行った観光バスの運転手が翌日話してくれたことは、ホフブラーハウスが閉店して意気投合した女性客と自室で飲み直そうと誘い、部屋に行ってから、一度酔いを覚ますつもりでシャワーに入ってる間に財布を盗まれたことを聞き、どの国も油断できないな、でも下心があれば被害覚悟も当然だろうとも思いました。バス運転手と良く話すようになって驚いた事は、彼が4ヶ国語を自由に操れるという事です。当時はまだヨーロッパでは封建的でもあり、階級制度や職業制度がはっきりしていて靴屋は靴屋、時計屋は時計屋、彼のように父親が運転手の場合はそれを見習って運転手になったようでした。伝統や職人芸を大切にする文化は敬服するし尊敬もしましたが、職業の選択の自由については私自身の将来の立場も考慮すると、やや疑問も感じていました。どうして自分が選択したい職業ではなくて、すでに決められた職業につかなければならないのだろうかと。4ヶ国語自由に操れるのであれば、親父の職業を追わなくても新しい世界も開けてくるのではないかと考えたからです。私が父の仕事を最初は引き継がなかった事や、子供の将来の教育に関することも、このエピソードが部分的に影響を及ぼしました。こんななんの変哲もない出会いで、情報を直接得る事が将来自分の道に影響を与える可能性があるのが、外国人との新しい出会いであり、自由に考え刺激を与えてくれる第一歩だと思っています。それもただ単純な情報を得て簡単に結論を出したのではなく、そこにたどりつくまでの教育・経験・人間的繋がり・人間を中心とした欧米人の基本哲学など等が影響していたからではないかと思います。
オーストリアのウィーンは音楽の街でした。その雰囲気はどこの訪問国よりも成熟・完成していたように感じました。心の安らぎ、ストレスを感じさせない美しい街造りと歴史の重厚さ、退職したらこの街に住んでみたいという気持ちを抱かせました。スイスは自然が総てでしょう。自然の広大さ・豊かさは北海道以上、異文化との触れあいを大切にしたい、より自然に近づいて生活したければスイスは最適ではないかと思いました。大人の国そんな感想を持たせたのがこれら3ヶ国でした。
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ヨーロッパ旅行の思い出(5)
人間の創造力・創造性にただただ驚かされたのがイタリアでした。世界の代表的革命を三つ上げるとすれば、20世紀に起きたアメリカのインターネット革命、18世紀後半が英国の産業革命、そして15世紀後半のルネサンス革命で、これは宗教の名の下に抑圧された文化・文明の下で人間を中心とする概念を導入し、人間の創造力の偉大さを証明した革命といえるでしょう。ルネッサンスは西洋の近代化の始まりであり、その中心がイタリアだったのです。西洋諸国を理解する上で中世暗黒時代とルネサンスを抜いては語れないでしょう。
イタリヤはミラノからスタートして、フィレンツェ、ベニスそしてローマと旅をしましたが、ミラノは工業中心の街だけに人々は忙しく動き回り、市民の活気を感じ取りましたし、勤勉で生き生きしている印象を強く持ちました。勿論すでにこの街並みの持つ独特な個性と躍動感を感じ取っていましたが、その後の三都市総ては感動以外の何ものでもありませんでした。フィレンツェの繁栄とルネッサンスは、ヨーロッパにおけるメディチ家の大きな財政力に負おうところが大きかったと言えるでしょう。彼らが政治的・経済的にフィレンツェ政府の実権を握り統治して滅びる1737年までなんと300年以上でしたが、銀行家として財をなし影響力をもち始めたときから数えれば約360年近くフィレンツェに君臨した事になります。この時期ルネッサンスの立役者だったレオナルド・ダ・ビンチ、ボッティチエリ、ミケランジェロなどのパトロンとなって新しい文化を育て上げたわけです。絵画は宗教色を徐々に回避し、新しいさまざまな手法が取り入れられ、建築物もゴチックの重苦しい形からの脱却が見て取れました。絵画の遠近法や教会内部のドーム建築手法はそれまでになかった発想で、人間 の感性の偉大さを肌で感じとりました。
ルネッサンスに続く16世紀後半から始まるマネリズム(mannerism)を対比すると、いかにルネッサンスが生き生きとした理想的な芸術・文化的革命だったかがはっきりします。マネリズムは無用長物の飾り付けが多く、生活が豊かになるにつれて人間は意味のない贅沢とそれに伴う装飾がほしくなるのが建築物にも良く現れていたのです。
次回はヨーロッパ旅行の総括と全寮制英国高校の最終学年についても書いてみたいと思います。
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ヨーロッパ旅行の思い出(6)
宗教的に一番印象に残ったのはバチカンでした。法王を国家元首とする独立国家で、イタリアの首都ローマ市内に位置します。カトリック教会を支配する大本山だからだと思いますが、サンピエトロ大聖堂内は世界10億人以上の信者の崇高な祈りからか、神聖な霊気が立ちこめ、霊魂の存在さえも感じさせました。バチカンの総面積は0.44平方キロで、日本の皇居の1.15平方キロにも及びません。人口も約800人程度でした。法王が世界に向けてメッセージを送る時、カトリック教徒に限らず人々が真摯に受け止められるのはバチカンが軍事力と経済力を放棄しているからに他なりません。私はこうした方針を貫ける事は見事だと思っていますし、だからこそ発言に重みや説得力があるのではないでしょうか。この点について、世界の中の日本はどうあるべきか、後日私なりの考えを述べるつもりでいます。バチカンは皆さんがイタリアへ行く際、是非一度寄っていただきたいスポットです。
どんなに偉大な文化や芸術が栄えても、そこに住む国民の卑しさと心の貧しさばかりで人間としての誇りも忘れ、とにかくすきあらば人をごまかしてまで金品類を巻き上げようとする行為は信用できない国家であり、国民も誰一人として尊敬されないのではないでしょうか。ロンドンで詐欺にあったときの事はすでに申し上げましたが、一番不正行為が多くうんざりだったのはイタリアでした。税関での賄賂や我々をだまそうとした観光客を装った卑劣な現地人、そしてもっと最低だったのはローマで子供の手を引きお金をねだった母親が、我々が無視すると尻を丸出しにして見せたのです。欧米では尻を見せる事は相手をけなす意味を持ちますが、男でも許せないのに女性が平気なのには本当に軽蔑すること以外に頭に何も思い浮かびませんでした。総じて一般的ではありますが、観光が主要産業の街はヨーロッパのどの国であれ、用心は絶対必要でしょう。他の日本人観光客から聞いたのですが、ローマより南は貧困の差がもっと大きくナポリは危険とさえ言っていた事です。
楽しい一ヶ月の旅でしたが、ローマが最終目的地で、ローマのホテルの玄関先で親に別れの握手とお礼を言って送迎バスに乗り込みました。この時、辛くて振り向く事ができませんでしたし、とめどなく涙が頬を伝わり、多分今までで味わったことのない最も悲しい別れではなかったかと思います。
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アボッツホルム高校での最終学年(1)
無事英国にもどり、いよいよ最終学年を迎えました。2年生の後期いくつかの“O”レベルに合格した他、グランドホッケーとラグビーの一軍で活躍したこと、特にラグビーの一軍は近年最強で負けはしたものの、中部ダービー州クラブチームと戦うほどでした。また今期からテニスチームのキャプテンに任命されたこと、そして積極的に課外活動にも参加した結果、青タイに星が入り学校でのトップ5名に名を連ね、朝食後の朝礼時食堂でスネール校長が私の名前を呼び全校生の前で発表しました。生徒皆さんの暖かい拍手喝采がわきあがった時は、心から嬉しい気持ちでした。日本人の面目を保てたのが正直な気持ちでした。他にもボズウエル先生から寮長を指名され勇気100倍をいただいた、そんな心境でした。
全寮制の学校はエリートを養成する役割があり、私は到底学力上そのグループには属しませんでしたが、いくつか今までに書かなかった経験について触れてみたいと思います。ベッドは自分達で毎朝作りますが、洗濯・アイロンは総てマトロン(寮母“matron”)がやってくれます。自分の事は自分でではなく、エリート候補生は自分の立場に見合った仕事をするのが役務であって、洗濯・アイロンがけではないのです。マトロンの仕事ぶりはたいしたもので、週一回の洗濯物を金曜日出すと翌週水曜日には手元に戻りますが、びっくりする程綺麗に洗濯されていて、アイロンも中途半端ではありません。服の形も学校でお世話になった3年間、まったく崩れることはありませんでした。社会保障の充実度は揺り籠から墓場までの国柄でしたから、製造販売された物もたいがい一生使えます。ロールスロイスの売り文句は一生涯の品質保証で、私の買ったスキーセーターも、編み目がしっかりしていて購入後、25年は着ていて形は最後まで崩れませんでした。長持ちするのは感謝しましたが、これでは経済が回るわけがないと思った事を今でも覚えています。
課外活動ではシェークスピアの生家をストラットフォード・アポン・エーボンに見学に行き、同時に劇“ジュリアス・シーザー”を屋外劇場で鑑賞しました。バーミンガム州にはウインストン・チャーチル元英国首相の別荘ブレッチリ−・パークへ行き、たまたま狐ハンテイングが開始されるところでした。コッカスパニエルの猟犬が数十匹と馬にまたがったハンター数十人は背筋を伸ばし燕尾服をまとい、赤いチョツキと黒いハンテイング・ハットの出で立ちとハンテイング用の白いズボン、乗馬用の長い黒ブーツで、紳士のスポーツそのものの印象と、ハンターから出ていたオーラ・威厳を感じずにはいられませんでした。
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アボッツホルム高校での最終学年(2)
大学進学の手続きも順調に進み1968年の終わり頃には続々と米国大学から受け入れの手紙が届き始めました。当時は今日のようにインターネットはなく、“バロンズ”等の大学案内専門書を見ない限り大学の詳細は分かりませんでした。ワシントン州立大学を選んだのは大学の対応が早く手続きがどんどん進んだ事、そしてなにより私の中学時代特英の小平先生が住んでいたワシントン州が比較的日本と気候が似ていて湿度は違うものの、四季があり住みやすいとのアドバイスがあったからでした。後日、本当に気候や自然環境が大切だと実感しました。イギリスの田園風景は気持ちを穏やかにしてくれましたが、冬場の月が満月の時は日本で見るよりほぼ3倍大きくてオレンジ色に近く、また新月のときの暗黒などはドラキュラや狼男の伝説がなぜ生まれたのか想像がつくぐらい不気味でした。今でもイギリスは“曇りのち雨、時々晴れ”という印象は消えません。
冬休みが明日から始まる前日の晩、学校主催のクリスマスパーティーがありました。青タイに星入りの生徒全員と青タイのみの一部生徒5名の計10名がパーティーをさぼり自転車で先生に見つからないように5キロ離れたパブ(酒場)に飲みに行ってしまったのです。学校に返ると宿直のクラーク先生が同級生のニュワ−ルを探していました。たまたま彼の勉強部屋に行った6名は酒気帯びで問い詰められどこにいたのかもばれてしまい、速校長に報告されました。ボズウェル先生にはその晩謝り、寮長を辞めさせてくださるようにお願いし、翌日この一件が朝食時にアナウンスされ6名の降格が決定されると、食後すぐに校長室に出向き青タイをはずして校長に返上しました。校長はそこまでしなくても良いといいましたが、昇格できる2ヵ月後までは預かっていただきました。翌年春のAレベルの受験を残すのみで毎晩遅くまで勉強していましたが、進学が決ま り気持ち的にたるみがあったのだと思います。同じ寮の生徒に対して、又日本人として本当に恥ずかしい、情けない思いで一杯でした。この不祥事は生涯忘れることはないでしょう。
この体験はホームステイーのナッシュ宅にも報告されていました。誰にでもあることだからと慰めてくれましたが、クリスマスパーティーに招待された女性ゲスト全員にヤドリギ(MISTLETOE)の飾ってある下へ連れて行かれクリスマスと慰めのキスをされて元気を取り戻しました。ヤドリギの下であればキスが許されるとはなんと良い習慣だった事でしょう。
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英国留学を終えて
結局のところAレベルで受かったのは数学(pure math)、また徒然草を中心とした日本語だけでもう一つの数学アプライド・マース(applied math)そして物理は合格できませんでした。友人のアレンは彼の父親同様、獣医の専門学校進学が決まりニューワルは無事ロンドン大学に合格そしてナッシュ博士の息子ロバートはブリストル大学に英語教育学専攻で決まりました。私はAレベルの合格にもかかわらずOレベルがあったのでワシントン州立大学に入学が決まっていました。英国高校卒業後5歳年下の弟の慶応高校進学が決まり、ヨーロッパ旅行を共にする事で英国にきましたが、旅行中心配だったのは弟が酒を飲みすぎることでした。この心配事は30年後弟を失う最悪の結果をもたらします。父を責められませんが経営者の子供達は昔、取り巻きにちやほやされ飲めることが偉いことのように育てられたものです。私も中学生の当時飲まされましたが外国へ行ってからは、はめをはずすことは例外的にあっても酒盛りで無理はまずしませんでした。昔はとかく父親になると、息子と早く一緒に飲みたいと思いがちでしたが、このつらい経験は私が息子を授かった時、二十歳になるまでは決して飲ませないという強い意識を持たせたのも間違いありません。
英国での経験は私に日本人としての誇りを持たせてくれたただけではなく、英国人を知る事によって文化や教育がいかに大切か、民族や国家とは何かをおぼろげながらも教えてくれたと思います。日本の武士道にとても近い、名誉を最重要視する騎士道、ねずみ小僧のように弱きを救い悪しきと戦うシャーウッドの森のロビン・フッド。スポーツでは自然をそのまま受けとめ競技するラグビー・ゴルフ・サッカー。今とは違い、負傷者がでても補欠を許しませんでしたし、どんなに荒れた天候でもゲームは決行されました。人間関係についても、英国人はとっつき難いものの知り合えば気を許して、本気になって付き合ってくれました。
アラスカ民族イヌイットがアメリカの価値観による政策により食文化であるセイウチの狩りを禁止され、彼等の大切な文化を奪われた時、イヌイットは一民族として歴史に終止符を打たれてしまったと言っても過言ではないでしょう。自分の国が立派な文化や世界に存続する意義を持つ事は本当に大切だと感じました。
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英国留学の総括
今回はもう少し踏み込んで、英国留学から学んだことを伝えてみたいと思います。日 本へ帰るヒースロ空港での出来事でしたが韓国からの留学生が目の前でチェックインしていました。荷物が重すぎて超過料金を払うように言われていましたが、お金がなく私に貸してくれないかと頼まれました。目の前で困っている同じ留学生の立場から数ポンドでしたが手渡し、只こちらも生徒なので帰国したらお金を送金してくれるように頼み、住所も交換しました。ステレオタイプになりたくはありませんが、この韓国女性はその後ありがとうでもなく、そのままで一切連絡してきませんでした。いったい留学でなにを学んだのか、韓国人としての誇りは持ち合わせていたのか大変疑問に感じました。仮に英国でいやな経験をしたとしても私とのやりとりは別問題だったはずでしょう。
英国留学後25年経ったある日、アレンから国際電話が入り、姉が看護師としてクウィーン・エリザベス号で横浜港に入港するのでめんどうをみてくれないかと依頼されました。勿論了解しましたが当日船内を見せてくれる事になり船に乗り込みました。船長に午前11時過ぎに合いましたがすでに酒臭く職務に支障をきたさないか聞くと副船長が船に関する役割を果し、自分はお客様がベストな形で旅を楽しんでくださる事が主たる役割だと心得ていると言うのです。クウィーン・エリザベス号は客船でありお客様が飲んでいるのに自分がシラフでは申し訳ないと言うのが理屈でした。
港で規律が厳しい国はどこかとの質問には日本とはっきり答えました。出航時の遅れを一秒たりとも許さず、それが日本の信頼にも通じるが、まあー少し緩めてもいいのではないかとも言っていました。船内は士官だけのバーラウンジがあり、バーにはバーテンがいませんでした。士官は独自にバーに入り酒をグラスに注ぎます。シングル・ダブル総て紙に書いて自己申告します。士官はごまかさない教育を受けているからと聞き、25年経っても変わらない価値観に感激させられました。
パスポートには自身が写真で紹介されているページがあります。その上には次のように書かれています。“日本国民である本旅券の所持人を通路支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。”この文言の意味を英国留学から学び取りました。日本人として生まれてきた事に誇りを感じ、先人達が戦後立派に国を建て直した功績に心から感謝しました。
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大学進学前の率直な気持ち
受験したAレベルの結果が期待以下だった事をどう自分なりに消化し、また今後どのような専攻をとるべきか真剣に反省してみました。留学した当初、戸惑いはいくつも ありました。その事によって余計な時間や道草を食ったことは否めませんが、それは決して無駄ではなく更なる飛躍に役立ったことも自覚していました。少なくとも恥じない努力は尽くしたと自分で納得していたからです。只、問題はその努力の内容が自分の希望する方向で勉強したのか、そうではなくて父が許してくれた留学になんとしても報いよう、将来父の仕事を継がなければならない、家族の期待にも答えたいとの力みが強かったことで、本当に自分にむいている学科はなにかを見極められなかったのではないかと考えました。ロンドンへ適性検査を受けに行って、思いもよらないインテリアーデザイナーが良いとの結果とか、アメリカの大学では2年終了時まで専攻を決める必要がないという、積極的に収集した情報もこの時自分を分析する上において自身を素直に見つめる事ができた大切な材料だったと思います。この時の反省で初めて叔父が留学前に色紙に書いてくれた“お父さんの期待を双肩に感じるな”という意味を理解しました。
父は平成2年11月11日、亡くなる10日前はじめて自分の仕事を継いで欲しいと言いましたが、この時すでに自分自身も自分の企業の経営者だったので即答できず、2日間寝られずに考え込みました。それまで父の社長代行を5年近く務めてきた弟の、“続投したい”意志を確認して、弟を補佐し経営に参画することを父に報告しましたが、当時納得してくれたのかどうかは今でもわかりません。いずれにしても私に継いで欲しいという期待を持っていたことは事実でした。私はこの体験から子供はそれぞれに得意不得意分野があるので、充分な教育の機会は与えても、それ以上の期待は持ってはいけないと自分に誓いましたし、そのように実行しています。自分や世の中の進歩があるのは、好きな事を追及できてこそ始めて実現可能だと信じているからです。好きな事は元来誰しもが時間を忘れて打ち込み、結果として進歩があるのではないでしょうか。
今後の方向についてはアメリカ留学後、とにかく興味ある授業を取ってみてゆっくり決めれば良いという結論に達していました。イギリス留学を終え弟とのヨーロッパ旅行は気持ちの整理がすでに出来ていたので、忘れる事のできない本当に楽しいものでした。
次回は帰国して驚くほど変貌してしまった社会について書いてみたいと思います。
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決して喜べなかった日本の発展(1)
3年間のイギリス留学を終え期待感と誇りを持って日本に戻りましたが、何でこんなに驚くほど日本が変わってしまったのか、正直言って途方にくれました。すでに日本は前年の1968年アメリカに次ぎ資本主義国第二位の国民総生産を誇っていましたが、国民の意識にはまだ目立った驕りを感じるまでには至りませんでした。社会的にはどのように変化しつつあったのでしょうか。
渋谷に遊びに行ってなんと多くの大人や若者の酔っ払いを見かけた事でしょう。立小便は所かまわずで、回りに歩行者がいても平然と恥じらいのかけらもなく用を達していました。当時はサウナがなかったので何人もの酔っ払いが駅のベンチで寝過ごし、あらゆる場所で嘔吐を目撃しました。帰国して父と共に横浜・伊勢崎町にあったヘンリーアフリカという地下の飲み屋に入った時には、くわえ煙草で若い女性二人が酒を飲みかわしている光景を目のあたりにしました。3年前男女がレストランバーで飲んでいる姿を見受けた事はありましたが、女性だけで飲みにきていてくわえ煙草を見た時には、将来何か取り返しのつかない事が日本の社会で起こるのではないかと感じずにはいられませんでした。“何がいけないのか”と今の若者はきっと言うでしょう。でも間違っています!以前アラスカのイヌイット族の文化と人種が絶えてしまったことを申し上げました。どこの国にもその国・その土地に特有の文化と歴史があります。そしてそれがあるからこそ自分の存在する意味があり、自分のアイデンテティーの基本となっているのです。自分を支え、誇りを持って生きられる大切な“自己に対する価値観”の構築の重要性を理解しなくてはなりません。実は自国の文化を忘れ、“何がいけないか”と平然と言ってのけた日本人をすでに外国でも見かけていました。レストランで子供が騒がしかろうと親は子供を静止せず、恥じとも感じていませんでした。
自国の文化・教養・そして日本人として・人間としての理性を理解しなくなった時、自分にいったい何が残るのでしょうか。今生きがいを見出せないでいる人達の典型ではないかと考えます。自分が誰か理解しようとすること、これが自己確立の第一歩ではないでしょうか。日本人が失いつつある精神そして心のよりどころに危機感を覚えたのだと思います。
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決して喜べなかった日本の発展(2)
1950年代からテレビや映画を見ていて、金髪の女性がくわえ煙草で酒をあおるシーンは何回も見ていましたが批判的な気持ちはありませんでした。日本とは日常的な生活環境が違うと感じていたからでしょう。日本女性のくわえ煙草や黒いナイロンストッキングは、戦後間もない赤線地帯を思い起こさせました。いわゆる今の風俗嬢の記憶です。私の住んでいた近所では川沿いに小屋が並びその前で小さな椅子に腰掛け、足を組み煙草をくわえていた女性の姿を思いださせたのです。売春防止法の施行は1958年でしたが、私は10歳でしたので女性の素性はわかりませんでしたが、中には下着姿(シミ−ズ姿)で煙草をふかしていたので、決して健康的な生き方ではないだろうと思っていました。
一方媒体面では1964年の春、今は廃刊になりましたが平凡パンチが創刊され、1966年には週間プレイボーイも発売されました。題材はいずれもファッション、車、セックスが主体です。平凡パンチは創刊2年目で発行部数が100万部を突破したと記憶しています。いかに国民が豊かになりつつあったかお分かりいただけると思います。
テレビでは1965年深夜でしたが大橋巨泉の11PMと言う娯楽番組が始まりパチンコ・マージャン・競馬・色気を中心に放送され、雑誌同様人気を博していました。11PMはロングラン番組で1990年まで続きす。1969年帰国した時、色気に関しては驚くほどエスカレートしていて、色気中心の番組が他にもいくつかありました。当時、消費者団体からは子供に悪影響を及ぼすので自粛して欲しいという申し出が各テレビ局にありましたが、子供を遅くまで起しておく視聴者の問題と言ってまったくとりあいませんでした。多分この時頃から“自分だけよければ良い”“金のためならなんでもあり”とい う風潮が始まったのではないかと思います。私はこの現状を見て、女性が男女平等を放棄している姿に落胆させられました。誰の目にもとまるテレビの前で裸を売りものにすることは自分の性の評価を低下させる何ものでもなく、男性側からすれば女性を“見下す”ことを自らが促進していることに他なりません。性関連の犯罪を目覚めさせているのに等しいと言っても過言ではないでしょう。
発展とは利便性を生み生活を過ごしよくさせますが、一方では失われてゆく人間の資質の重大性を感じずにはいられませんでした。次回はいよいよアメリカ大学生活について書いてみたいと思います。
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渡米途中の新たなる発見
日本を離れて渡航する事は何歳になっても辛く、1969年秋学期に向かって羽田を発つときは“新しい仲間がまた必ずできる”と自分に言い聞かせて飛び立ったことを忘れません。“浦島太郎にならないように”との父の配慮からアメリカ留学が始まった後、夏休み期間中は毎年帰国しました。9月上旬になると大学の新学期に合わせて4年間渡米を繰り返しましたが、辛く淋しい気持ちはいつも変わることはありませんでした。ただ初年度の渡米は将来に対する期待感や不安感もあり、機内では一睡もできず7〜8時間経った頃だったと思いますが、ふと窓越しから外をのぞくとようやく日が明けそうな様子でした。ややしばらく遥か遠方の水平線上の一番明るい、ある一点に目を凝らしていると眩いばかりの黄金色の暖かい光線が左右にアッという間に広がったのです。太陽が水平線から現れた一瞬の出来事でした。あの美しい光景は今でもまぶたに焼き付いています。これから始まる長期留学と未知の可能性を天が見守ってくれている。“自分を探すために全力を尽くせ、その先には無限に輝ける明日が必ず待っている”と伝えてくれているのだと思いました。
ワシントン州のシアトルに降り立った時は午前中、不安より希望に目覚め意気込んでスポケーン行きの国内線に乗り込みました。スポケーン到着後は目的地のプルマンまで75マイル、約120キロで2時間強の道のりでしたが、疲れはあっても大学はもうすぐそこまでと元気一杯でした。グレーハウンドバスに乗り15分もしないうちに街から離れると素晴らしい森や小高い山々、まさに自然あふれる景観ばかりでしたが、それもつかの間、アッという間に見渡す限り大麦畑だけとなって人家は見当たらず、州立大学がこんな場所のどこにあるのか想像も出来ませんでした。穀物収納庫程度が大学の規模かなとの想いが頭をよぎりました。飛行機の中で経験した感動はいったいどこへすっ飛んでしまったのでしょう。不安がいとも簡単に気持ちの中に湧き上がり、いか に自分が頼りない存在かを悟るきっかけになったのもこの時でした。
とんでもない選択をしてしまった、もう救われないと思った夕暮れ時前、バスはある小高い丘を上がりその頂点に達して下る寸前、眼下に鮮やかな大学の広大なキャンパスが一望できました。薄暗い中全体像はまだ見えましたが、大学の建物にはちらほらと電気がついていました。不安で一杯だったため、この時ばかりは大学がローマ帝国の都に見えたのが偽らざる心境でした。“小高い丘”は“Hill Top”とそのまま呼ばれていて、“ヒルトップレストラン”にはこの後4年間ずいぶんとお世話になりまし た。
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大学一年生になる前の新鮮な体験(1)
スティンプソン・ホールという、大学では一番古い2階建赤レンガ造りの寮に入りました。秋学期が始まる前の1週間は新入生のあらゆるオリエンテーションが実施されていました。お互いが知り合うための2〜3泊程度のキャンピング旅行、友達を作るためのキャジュアルなダンスパーティー、学内施設のオリエンテーション、留学生用の問題解決事務局ツアー、大学の近辺と最寄りの町ツアー、学内警察署・消防署・病院への訪問等です。驚いた事にはキャンパス内に大学が運営する立派なホテル設備が整っていたことです。用途は色々ありますが、親が大学を訪問した時や大学院生が学期の始まる数日前キャンパス入りして住居が決まっていなければ格安で利用できるわけです。学業面ではアドバイザーとの初顔合わせ、自己開発のための授業選択アドバイス、新学期に登録する学科や速読訓練施設利用のアドバイス、運動面では体育館での無料サービス(タオル、体育用Tシャツ・短パン・運動靴・バスケットボール・ラケット類等)等などでした。一見至れり尽くせりの印象に思えますが、決してそうではありません。大学の持つ機能と与えていただいたチャンスの中から、いかに自分が率先して情報収集し、学費相応の満足できる教育を受けて卒業してゆくかということであって、“導かれて、与えていただく”受身の環境ではないのです。従って、“自分から行動を起せない学生”であれは、オリエンテーションに出なくても、一向にさしつかえないシステムだったのです。
それぞれのオリエンテーションは時間がかち合う場合もあって総てに参加はできせんが、それでも情報が多すぎて卒業まじかまで知らなかったことも多々ありました。例えば大学の敷地内にゴルフコースがあったとか、スキー場2ケ所を運営していて且学割が60%あったなど最終学年まで知りませんでした。選択肢が山ほどあり自分の判断で優先順位を決めなければなりません。イギリスでも同じような体験をしましたが、情報量の多さは大学の比ではありませんでした。日本での経験はいつも枠組みがあって、その枠組み内の工程に沿って物事が進められ、それにしたがっていたように思います。私が欧米にいきなり留学したとしたら、多様な選択肢の中から自分の求める情報を得なさいといわれても戸惑うばかりではなかったかと思いました。
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大学一年生になる前の新鮮な体験(2)
アメリカでまず驚いたのは挨拶です。初めて会っても“Hey what’s up!”や“What’s going on! ”“どうしている!”でした。こちらが返事をしようとすると、声を発する前にもう通り過ぎ去ってしまい、こちらの返事はどうでも良く、挨拶する意味がまったく分かりませんでしたし、大きなカルチャルショックでした。更に、イギルスでは常に目上の人はサー(Sir)で呼びましたが、アメリカでは教授であっても名前は呼び捨てでした。例えばトマス・ジョーンズ教授であれば、“トム”そのものです。なかなか馴染めず、自分のアドバイザーを“サー”や“ドクター”をつけて姓で呼ぶと“アーノルド”を略して“アーニ−”が良いと教授に直接いわれましたが、最後の最後までドクター・トムプソンで許していただきました。名前を名指しで、また略式で呼ぶ事は文化的背景からしても、当時はまったくできませんでした。しかしながら留学を終え30代で独立後、米国大学の教授と付き合うようになってから、ニックネーム等で自己紹介された場合、そのまま教授の希望する呼び名で呼ぶことがいかに大切か気付きました。握手と同じような意味があり、早くからお互いが知り合える効果があったからです。これはアメリカにおける独自の文化と習慣で、相手に安心感や親近感を持たせることになるのです。姓で呼ぶ事は距離をおいていると受け止められ、日本のように敬意を表していることにはなりません。名前で呼ぶと相手を見下すことや目下という意味でもないのです。気楽に呼び合っても相手にはらう敬意はなんら変わりないのです。この習慣はビジネスの世界でも同じでした。
手紙を書くときもイギリスは名前の後にエスクワイアー(Esquire)・例えば手紙で封筒に相手の名前を書く場合“Alan Rhodes Esq.”と書き尊敬・尊重の念をはっきりと表示しました(昨今のイギルスはミスターが中心のようです)。また手紙の書き方も工夫を要し、豊かな表現力や言い回しが求めらてれていました。アメリカはミスターが中心でしたので、年上や尊敬する人間に対して敬う気持ちがどうのように文化的に根付いているのか興味を持ちました。その後のアメリカ人家族との接触を楽しみにしたのは、この大切なオリエンテーションから刺激を受けたときからでした。
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大学一年生になる前の新鮮な体験(3)
寮では新入生の会合が企画され友人が3人すぐに出来ました。勉強とテニス友達のジョン・フォーストラム、飲み友達のフランク・ウィング、日常の話し相手で香港か ら留学してきた中国人のタクジ−・マオでした。ワシントン州は21歳までお酒は飲めませんでしたが、1969年の11月初旬が私の誕生日だったので、大学生になって2ヶ月もしないうちにフランクとは酒場に出かけました。フランクは大学1年でしたが23歳で、学期が始まるともっと年齢の高い30ー40代のビジネスマン風の男性を何人も授業で見かけました。アメリカは生涯教育がごく普通で留学期間中、60代の女性大学院生にも出会いました。フランクからは飲酒運転の罰則の厳しさを詳細に聞いていましたので私は違反をしませんでしたが、後に触れますがジョン・フォーストラムは21歳の誕生祝いの帰り道、飲酒運転とスピード違反で捕まり取り返しのつかない経験をしてしまいます。
アメリカは特に酒の購入に厳しく、21歳以下には売ってくれませんし、街中には酒・煙草類の自動販売機は一切ありません。未成年と思われる者に身分証明書の確認をせずに売った事が分かれば罰金刑だけではなく、州政府から酒の販売免許が取消されたり、悪質であれば留置もありえました。自由と権利は大人のルールを守ってはじめて与えられるのです。
大学の生協やスーパーマーケットへ行って驚いたのはすでにバーコードが全面的に普及していたことです。アメリカでは1967年に大手スーパーがはじめて導入し、アメリカ全土に普及したのは1973年だったそうですが、日本では1984年セブンイレブンが取り入れそれから百貨店・スーパーへとひろまりました。効率化や節約はバーコードのみではなく、生協では使用済み教科書も安く購入できましたし、雑な作りのブレザーが安いのは当然ですが、斬新なデザインや色彩は当時流行していたブルックス・ブラザースそのものでした。イギリスとは正反対で使い捨て優先という印象でした。スーパーマーケットではfast lane(速いレーン)が設けられていて5品目以下であれば、レジで清算している他のお客を待たずに通してくれるので時間の節約になりました。関東のスーパーで今だこのシステムを見たことはありません。大学内の信号機には総てセンサーが設置してあり、わき道からメイン通りに自動車が近づくとセンサーが働き信号が変わる仕組みになっていました。
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大学一年生になる前の新鮮な体験(4)
ジョンとは大学のテニスクラブに入ろうとテニスコートへ行き、テニスチームの選手に試合を申し入れました。まずサーブの早さに脱帽、技術的にもプロ級で試合にならず二人とも一ゲーム終了後あっさりとあきらめました。ジョンとは部屋が隣だったこともあり、一学期目から大変親しくなりました。自分の目標としてクリスマスはアメリカ人家庭に招待されるように心がけていましたが、図らずも初年度の冬休みから実現しました。これは三年連続毎年学内で知り合ったそれぞれの友人宅にお世話になりましたが、この体験は社会人になって海外とのビジネスが拡大する過程で大変役立った事は言うまでもありません。
大学一年生のダンスパーティにもジョンとは積極的に参加して踊りまくりました。スローはスム−チ、速いリズムではツイストやモンキーダンスでした。学期が始まった一週目、自分が一番気に入った女性に連絡をとってデートを申し込んだのです。ジョンはジャッキー、私はマリアンとの付き合いが始まり、4人でダブルデートに良く行きました。女性二人が高校時代からの友人だったこともあって、4人はいつも一緒の行動が多かったと思います。当時屋外映画館が流行っていて、ジョンのフォルクスワーゲンで乗りつけ料金を払い、映画会場に設置されている音声の機材を車の中に引き込んで映画鑑賞をしました。まさに60年代のアメリカを地で行っていたと思います。映画の後はハンバーガー店(hamburger joint)で特大のハンバーガー(quarter pounder)やアービーズ(Arby’s)のバーベキュー・ビーフを食べに行った事は今でも忘れませんし、青春そのものでした。彼等との会話の中で感心をもったのが学費の大半と小遣いを夏休み中に稼いでいた事でした。足りない分は大学の学費ローンや奨学金を併用して自力で大学へ来ていました。ローンは低金利、出世払いで済んだようです。ジョンは夏休みの3ヶ月間精肉店でフル稼動し、牛の解体についてはプロだと自負していました。あの時代、約90日間で4,000ドル弱(1973年まで$1=360円)を稼いでいたのは本当に刺激になりました。蛇足ですが彼の話によると、脂肪身の多いハンバーガーミートは何が入っているかわからないので、避けたほうが良いと教えてくれました。
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大学一年生になる前の新鮮な体験(5)
私が2年間お世話になったスティンプソン・ホールの部屋は広さが約40畳、学生5人(一人あたり畳8枚)が生活できるように各部屋ごとに仕切られていました。大学4年生は一人でしたが勉強や就職活動について聞いてみました。専攻は経営学、4年生の教科書を見せていただきましたが内容がまったく理解できず、専攻は何であれ先々に不安を覚えました。彼のアドバイスは3年生までの専攻の基礎をしっかりと積み重ねれば私が目を通していた経営学理論や経営実践研究での経営分析・経営目的・目標・戦略・実行プラン・成果分析等は決して難しくないと言っていました。就職については大学卒業時にB平均以上の成績を保ち、大学院を目指さないと給料条件の良い就職口は皆無とも助言していただきました。彼はすでに10社以上インタビューで歩き回っていましたが就職の見込みはありませんでした。この会話は大変衝撃的で、まずは自己管理と生活面でのメリハリがなければアメリカの大学は乗り切れないだろうと心得ました。思うような結果をイギリスで得られなかった反省から、“今アメリカで与えられている新しいチャンスを何としても一つの成果として結び付けたい”という強い気持ちが湧きあがっていたと思います。
薬害オリエンテーションにも参加しました。大学の単位が取得できる薬害教育(drug education)もありましたが、すでにアメリカでは深刻な社会問題になっていたため、学期前に聞いておきたかったのです。約30分に及ぶドキュメンタリー映像を見て中毒患者の悲惨な状態を見た後説明に入りましたが、薬物(drug)を大きく2種類に大別しました。自然栽培(単純栽培と精製した物)と金の化学的化合物です。自然栽培が良いというわけではありませんが、化学的化合物の人体に及ぼす危険性を強調していました。なぜ危険かといえば、依存症は勿論のこと時として人の遺伝子を傷つけ、将来子供に障害児が生まれる可能性が高いからです。当時すでにアメリカの幾つかの州では週単位で決められた量のマリファナを許可していましたが、ワシントン州は認めておらず、徐々に強いものが欲しくなるリスクを犯さない方が賢明だと結びました。
正確に情報を収集していれば、“一度だったら大丈夫”という発想はないと思います。学期が始まって3ヶ月もたたないうちに、新入生の一人がマリファナの吸いすぎで、救急車で搬送されてゆくのを見ましたし、ハロウイーン休暇のときには友人のアパート宅のパーティに無断で参加していた女子高生が覚せい剤を打っているところを目撃しました。
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1960年代アメリカの国内情勢とベトナム戦争(1)
アメリカが他国との戦争で初めて敗北を経験し、全米の反戦デモが大々的に行われたのも、ベトナム戦争が初めてだったと思います。1954年、ベトナム北部が北緯17度線を境に共産主義国として独立しました。そして初代大統領としてホーチ・ミンが就任します。
日本がアメリカの援助に救われ、また1950年に勃発した朝鮮戦争による日本経済の活性化がなければ、ベトナムと形は違っていても社会主義国になった可能性はあったと第7話で書きました。北部ベトナムそして北朝鮮は残念ながら共産国になってしまいましたが、一国の未来がその国の経済状況や他国間の関与、そして条約等で変わってしまう。なんとも恐ろしい現実だし、日本も紙一重だったと言えるのではないでしょうか。
ベトナム戦争はアメリカの近代社会を大きく変化させた第一歩といえるでしょう。1960年ベトナムでは民族解放戦線が勃発し、1964年南ベトナムは北ベトナムからの攻撃を受け始めます。一方アメリカでは1963年11月ケネディー大統領の暗殺に伴い副大統領だったリンドン・ジョンソンが代役を勤めていました。1965年ジョンソン大統領はこれから泥沼化するベトナム戦争参戦を決意します。アメリカは当初から戦争反対派が約48%いましたが、政府はその強力な軍事力から戦争を短期間で終結できるという予想を描いていたと思われます。アメリカが戦争から撤退するのは8年後の1973年3月、更に戦争の終結までにはその後2年を要しました。戦争取材ジャーナリストに大きな変化をもたらしたのもベトナム戦争が初めてでしたし、この時のジャーナリズムに先導されて大変な全米反戦デモが行われたのもこの時でした。ベトナム戦争以前、従軍記者はいましたが、最前線の報告は常に軍からの一方的なもので、戦況の勝利報告とは裏腹に長期化していた戦線に疑念を持ったジャーナリストが最前線に軍隊と同行して初めて現実を目のあたりにしたのです。
今でも覚えていますが、アメリカ人記者ウォルター・クロンカイトは悲惨な最前線とベトナム戦争の泥沼化をテレビで訴えました。80%の殺戮は民衆に向けられ、戦争は早期終結しない事などが連邦裁判所に提訴され、軍は結果国民の訴えに敗訴します。クロンカイトは国民に“国家権威に負けてはならない”と訴えました。健全なジャーナリズムの必要性と国民のパワーに信念と行動力を持つことを考えさせられたのはこの時が初めてでした。
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1960年代アメリカの国内情勢とベトナム戦争(2)
メディアを通じて記者ウォルター・クロンカイト他数名のベトナムレポートは強烈な影響を学生にももたらしました。1969年10月全米での反戦デモは火に油を注いだようにまき起こります。ジョン・バエズ(Joan Baez)は反戦のフォークソングを全米各地で歌い続けました。ビートルズのジョン・レノンはオノヨウコと共に反戦デモに加わります。当時どこの大学でも落ち着いて教育を受けられるような雰囲気はなく、いつ暴動が起こるか、それほど緊張した状態と誰しもが感じていました。年が明けて1970年5月4日オハイオ州のケント州立大学で事件は起きます。大学側が警備依頼した国家警備隊(National Guard)が発砲。学生4名が射殺され、1名が全身麻痺、8名が負傷する前代未聞の事件がおきてしまいます。各メディアは“Four dead in Ohio”“オハイオで4名死亡”と報じると、今度はニール・ヤング(Neil Young)はこれを題名として、全米で反戦歌として広めます。あの時ほど国民のパワーそしてエネルギーを感じたのは今もって経験がありません。ベトナム戦争はいったいなんだったのか、無残な殺戮だけだったとの印象でした。アメリカ人戦死者約52,000人自殺者52,000人以上、ベトナム人死亡者に至っては100ー700万人と言われています。
私はこの時の経験から端を発し、もう一つ学んだことがあります。それはその後長年のビジネスからアメリカ国民の価値観は常に“なんの目的と利益(国益)があるのか”、これを最優先して行動する国民であると確信しています。従って彼等は同朋の反対意見があっても、相手側の提案内容しだいでは、利に適えば了解と協力を惜しまないということです。
ヒッピーもこんな時代に生まれました。喪失感にさいなまれた国民や除隊兵。有名な“Make love not war”“殺し合うのではなく愛し合おう”もこの当時の言葉です。リラックスした服、つっかけ、長髪、ビーズのネックレス、ヘッドバンドそしてマリワナを吸って無気力に毎日を送るのも特徴でした。
ベトナム戦争はインターネットが普及する前でしたが、メディアがその目で戦争の実体を確かめるという新しい役割と、その報道によって国民のとった勇気ある行動と社会に与えたインパクトは、歴史的にみても稀に見る爆発的な出来事だったと今でも思っています。正義に対して真実を知った時、国民の総意が加速度的にまとまることに感心させられ、“たかが百数十年の歴史しか持たないアメリカ”ではすまされない、彼らの根底に流れるヨーロッパ人のDNAを感じざるを得えませんでした。
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アメリカ政府に対する疑念
当時、我々海外留学生が得られる情報を通して理解した徴兵制度は、アメリカ国家が保障する“国民の自由・平等・安全、そして義務に裏づけされた権利”に対して、この徴兵は人間の平等を否定し且侮辱していると思わざるを得ない戦争だったように思われました。89話の中でベトナム人に対する殺戮の80%は民衆に向けられたと書きましたが、他方徴兵されたアメリカ人生徒・学生の“生か死”をかけた戦いの中で、まず弱者が一番危険な最前線にかりだされたという批判でした。
どんな立場の人間だったのでしょうか。職業軍人は勿論ですが落ちこぼれが真っ先に徴兵され、次に生徒や学生については中退者が一番目の標的になりました。いわゆる“弱者”から最前線に送り込まれたのです。大学教育を受けている学生は徴兵対象者にはなりませんでした。大学内にあるROTC(Reserve Officers’ Training Corps)、“予備役将校訓練団”についても愛国心が強く、率先して出兵志願しない限りベトナムには行きませんでした。飲み友達のフランク・ウィングはROTCの士官候補生で、お父さんは退役軍人だったので徴兵者の裏話を詳しく教えてもらいました。海外留学生については永住権(green card)を取得したい理由から何人もの東南アジア学生が志願しました。アメリカで得られる自由を求めて、その代償として自らの命をかけたのです。将来の夢の実現に対する人間の貪欲なまでの覚悟を感じましたし、その反面アメリカが国家として国益最優先で永住権を餌に外国人の命までも利用する。そうゆう政治的な裏を考えると決して良い気持ちはしませんでした。
この体験は後日、日本の政治家・官僚・企業との癒着や不正を肌で感じ取り、国民はこの“三悪徳連合軍の奴隷”として一生涯働かされ、そこそこの満足度で丸め込まれる運命にあると思いました。税金の無駄遣い、権益の確保、自己保身を平然と実行し、国民からの税金を横領・背任するという重大な犯罪をおかしながらも、お咎めもなければ罰せられることのない、半ば北朝鮮と50歩100歩の典型的な状況にあるといえるのではないでしょうか。日本社会に対する具体的な印象は、アメリカ留学以降でふれたいと思います。
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いよいよ始まった大学教育
教授とどんな授業から取り始めたら良いのか十分話し合いました。イギリス留学後20歳になっても何を専攻するのかはっきりしませんでした。でも、今までの挫折感はすでにありませんでした。国によって違う教育制度を知り、その中から自分に一番向いている制度を選べます。選択肢はいくらでもあって、一つの方法論に固執する必要はありませんでした。人にはそれぞれの立場があると思います。長男・次男同じように長女・次女そして後継ぎなど等さまざまでしょう。私は父の仕事を長男として受け継がねばならないという思い入れが強く、何が自分の得意なのか考えた事もありませんでした。工学部にチャレンジするのが自分の道と考えていましたが、得意分野ではなかったのです。16ー17歳の若者が自分の専門について本当に分かっているのだろうか。もしもそうだとすれば理解できていないのは自分だけで、機転の利かない人なのかとも思いました。
一学期目はこんな状態でしたのでアドバイザーはすきな授業をとって自分を見直すことから始めなさいとの指導をいただき、気持ちの面では楽でした。選んだ5教科は物理・コンピュータ(フォートラン)・英語101(100番代は基本的に大学1年生の科目)・微積分・ヨーロッパ・ルネサンス時代の建築と体育でした。アメリカは日本と違って卒業単位が取得できた時点で卒業できます。卒業単位数は学部にもよりますが、2学期制の大学で4年間120から128単位でした。卒業単位が128の場合年間32単位、どこの大学も1学期ごとに成績結果が発表され、次ぎの学期は新しい教科を登録します。従って2学期制の大学であれば、一学期は年間取得単位32の半分、つまり16単位となります。私は一学期目16.5単位登録しましたが、コンピュータはなんと登録拒否にあいました。実務を取る前にコンピュータの道徳授業を取らないと先に進めないシステムになっていたのです。微積分については一般教養科目の一教科でしたので受講しましたが、すでに日本やイギリスで勉強していたので、教授に申し出て中間と期末試験の結果で成績を判断してくれるよう談判し了解していただきました。製図をプラス登録して19.5単位で始めました。仮にこの単位数で3年間進めば19.5 x 6学期=117単位。卒業まであと11単位となって3年半で卒業できる計算となります。
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教育方針から伝わる道徳観念と教育の厳しさ
コンピュータのプログラミングからいきなり入るのではなく、利用法によってその危険性を勉強させられたことは大きな意義があったと思います。将来的に予測できないコンピュータの応用技術と具体的なプログラマーのモラルの重要性は、悪用すればプライバシーの侵害に直結しますし、また将来の進歩についてはまったくの未知数でした。我々の時代は一つの情報を一枚のパンチカードに入力し、プログラムが複雑化すればカードは何百枚にもなりました。打ちあがったデータは大学のコンピュータに順番待ちでプリントアウトしてもらいました。打ったデータでドット・ピリオード・カンマ−等簡単な情報でも、一つでも間違えればプログラムは動かずそれを探すのに何時間も要しました。今はいとも簡単にパーソナルコンピュータに入力・修正でき、一晩かけて総点検し宿題をこなす必要はありません。未来のコンピュータは言葉での入力や、その先は頭脳で想い描いたプログラムを入力する、そんな時代が来るかもしれません。1960年代はどこの大学でもコンピュータの悪用とその危険性について警鐘を鳴らしていました。
日本では今7人に一人が利用しているコンピュータのバンキングシステムなど、私には到底考えられません。“便利だから”という理由で私の知るアメリカの友人はいません。このシステムは、他人様にいわば私の預金をいつでも好きなように利用してくださいと言っているのと同意語で、安全性が保証されない限り銀行にとっての利便性に国民が協力しているだけだと思います。
さて各教科ですが、宿題が山ほどでました。例えば物理では授業以外でレポートを含めた実験や宿題がありましたし、英語101も毎回出席する度にA4一枚のジャーナルを次の授業までに要求されました。ルネッサンスの建築学については中間と期末に各20ページの論文を書かなくてはならず毎日図書館通いが続きましたし、受講していた各教科は一週間単位で小テストもありました。教科書は少なくとも一回の授業で一章を終え、5科目では計五章です。宿題をこなす事と次の授業に出席して遅れをとらないためにも読み続けました。気持の上で開放感が持てたのは金曜日の授業終了後でしたが、期末試験が間近にせまると図書館通いでした。週末は大学が色々なイベントを用意して生活上のゆとりを調整してくれました。内容的には多彩で、学生をリラックスさせながら学期中はベストを尽くせるように、そんな人間的配慮をいつも感じていました。
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ベトナム戦争の議論を通じて理解し始めたアメリカ社会(1)
大学の勉強は大変でしたが、ベトナム反戦デモや集会が大学キャンパス内のいたるところで開かれていました。私も時間が許す限り集会に参加し色々な論議に耳を傾けました。国家警備兵がなぜケント州立大学に派兵され学生が射殺されなければならなかったのか、国家は言論の自由を我々から奪えない、アメリカはいつから帝国主義になったのか。さまざまな議論が展開され毎日のようにデモが繰り返され、小さな暴動も起こりました。
価値観の多様化、ヒッピーの本格的出現、ストレスの増幅、新興宗教への入信、ドラッグ(薬)の悪用、女性の自立と男女平等のクローズアップなどアメリカはこの戦争を期に社会的な多様化が短期間のうちに勃発したと言えるでしょう。1950年代アメリカの情報は狭い範囲内でしたが、映画から得られました。目にする映像からは日常の生活観をいろいろな場面で感じ取ることができました。男性は良く働き男性らしく生きる、女性は子供とのコミュニケーションを大切にし自信もって育て、しっかりと した絆で結ばれた暖かい家庭、そんな漠然とした、でも印象深い映像でした。また西部劇ではインデアンと騎兵隊が戦い常に騎兵隊が善インデアンは悪、そしてラストシーンでは善である騎兵隊がかっこよく勝利しました。こんな印象と見識を一変させたのがこの戦争だったと私は受け止めています。特徴的だったのは女性の自立と男女平等でした。歴史的にいつから女性の出兵が始まったのかは知りませんが、後方支援が主な任務で最前線に立ち、敵と真っ向から銃撃戦に挑むなどはベトナム戦争まで正式に議論されることははなかったと思います。それまでの軍は女性のコンバット(目前戦闘)を許しませんでしたが、女性兵士は大変不満でメディアに大きく取り上げられた事がありました。この時期が女性も男子同様平等にそして女性の本格的な社会自立が始まるきっかけとなった最大の要因だったと考えています。
近年アメリカの大都市に行くと戸惑うことが多々あります。レディースファスト(弱者である事と敬意を称して女性優先)を昔学んで、荷物を持って助けようとする事自体が男女平等を損ねるとし、差別していると認識される場合が多々ありますし、席を譲ろうとしたり女性のために自動車のドア−を開けたりすることがハラスメント(嫌がらせ)と受け取られるケースがしばしばあるからです。若いアメリカ人男性ですら自国の女性にどう対応したらよいのか分からない場合がいくらでもあるのです。
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ベトナム戦争の議論を通じて理解し始めたアメリカ社会(2)
前回レディースファースト(女性優先)を昔ながらの価値基準のままで接すると、現状のアメリカでは“差別行為”と受留められかねないと書きました。その一方ではレディーとして敬意をもって接して欲しいと望む“伝統派”も多くいます。ではどうしたら正しく見分けて適切な対応が取れるのでしょうか。服装・態度や言動から伝統派か男女平等派を見分ける一つの判断材料になると思います。最近流行している、ジーンズにカッターナイフで何本も横に傷をいれ太股を顕わにしたり、膝を丸出しにしたり、また会話が乱暴で男性が使う俗語を多用する場合、ほぼ間違えなく平等派でしょう。それでも確かでない場合や、念を入れて確認したい時は英語で“Do you mind if… ” “〜しても良いですか”と聞いてから手を貸すようにすれば間違いないでしょう。平等派はたいがい“No thank you”と答えます。
さて1969年当時、結婚を目的として有能な彼氏を探しに大学へ来ていた女学生が多かったと言えます。しかしながら、ベトナム戦争後は社会的自立や平等を求めて女性達は立ち上がりました。現在まだ待遇面や役職面で完全に男女平等とは言えませんが、社会進出や管理職の責務を担う女性は比べものにならない程、増加しました。“男女は同等である”との考え方は日本の比ではありません。結婚している日本男性の場合、私の見た限りでは大半が男性優位であって、これについてはアメリカでは女性に限らず高学歴な男性からも軽蔑されます。女性の社会進出は男性も望んでいて、家に納まりたがる女性は男性が結婚を嫌がる場合が多いのではないでしょうか。勿論、地域差はあると思います。
このような社会的変化が生じていた頃、学生達が制作した実験的映像が放映されました。15分程度でしたが、時代を皮肉ったのか映像の流れは宇宙ー地球ーフロリダ半島ー海岸線ー男女の激しい喧嘩とやり合い、そして最後は一つ一つのステップをへながら宇宙にもどり暗闇に戻って終了でした。実は社会的経験を積んでいくうちに、この短編映画が教えていた内容が大変貴重だったと気付きます。実体験をお話する時に触れたいと思います。
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大学生初の秋学期を経験して
大学在学中、男性優位は“Male chauvinist pig”“メール・ショーヴィニスト・ピッグ”、“男性優越主義のブタ”とまで言っていましたし、教養ある男性は男女平 等を全面的に支持していました。実質的に何を求めていたかと言えば、社会的な男女の機会均等化・金銭面でも同じ評価を求め、家庭内では家事・子供その他付随する家族としての役割を分担する、と言う事です。今のアメリカではこの考え方はしっかりと根付いています。
1950年代の映画については、騎兵隊が常に善でしたが、ハリウッドではインデアンの視点からの映画制作に取り組み始めました。1970年代初期の映画ではインデアンに対する騎兵隊の残虐性が描かれ、大変ショックでした。戦って死人の頭の皮をはいだ張本人は白人商人であったとか、インデアンの秩序や虐殺は白人が土地を奪うためにくわだてたなどです。1950年代の映画で、インデアンと戦う開拓史や騎兵隊物語は信用できないと思いました。映像から受ける印象とそれに伴う言葉の説得性はいとも簡単に人の気持ちを誘導できる、これが疑わざる私の感想でした。1950年代にジョン・ウェーンが主演した数々の映画と、1970年代初頭のダスティン・ホフマン主演の“小さな巨人”やリチャード・ハリス主演の“馬と呼ばれた男”を見るとその差は歴然としています。一度是非自ら検証して下さい。
勉強面にも触れておきましょう。落ち着かずに一学期を終えましたが、日本のように中間と期末試験結果が良ければ進学・卒業出来るわけではありません。そこにははっきりとした大学進学の理念があります。“肩書のために大学に行く”わけではありませんし、義務教育もすでに終わっているのです。従って大学教育とは自らが望む教育を進んで受けに行く場なのです。授業に出席しない事は教育を受ける意志なしと見なされ社会に出て働く事を促されるわけです。留年制度がなく一年大学に通っても成績が悪ければ退学になるのは、時間を潰さず貴重なお金の無駄使いをしないようにとのメッセージが込められているからです。ちなみにAは一教科の総合得点が92点まで、B は85、Cは75(進学できる最低点)、Dは65点、までで、それ以下は単位がおりません。一教科の中間と期末試験の得点合計は70点、満点を取っても進学は無理です。宿題提出・授業参加があって100点となります。自身の向上を図るため、真剣に勉強する事が社会人になる基本、それを教えているのです。
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大学生初の秋学期を経験して(2)
一年一学期目の英語101のクラスでは女性教授に授業外で“日本人はちょんまげ、伝統的な和服、下駄履きや草履と思っていたけれど、あなたの場合は例外ですか”と江戸時代を念頭に聞かれたのです。洗濯機やトースターがあるかとも聞かれ、日本に感心があった教授との出会いを大切に、日本の生活や文化をお話ししました。4年前の1965年アメリカに初めて渡った時、日本の主な輸出品がブリキのおもちゃ程度だった事を思えば、この程度の理解でもしかたないのかなあとも思いました。
アメリカでは20年以上続けた長髪を切った男性の記事が一面にかかれていたと以前述べました。今、日本で話題になりつつある地方分権は、アメリカではすでに定着していて各州や市町村のニュースはどうしてもローカル中心になりがちなのです。財源や権限がそれぞれの県議会に移れば、環境破壊のゴミ屋敷や近所迷惑を考えない騒音をだす近隣者に対して“手早くそして厳しく”取り締まれ、その地域に見合う法律が制定されるようにもなるのではないでしょうか。地方に権限を移すことは地方議員の判断に責任を生じさせ、中央の指導にしたがって実行しているというような言い訳はできなくなりますし、同時に地域社会のために“やってやっている”という風潮はなくなると思います。このまま官僚と中央政府の僕として働き、でたらめに税金を使われるのか、あるいは国民も他力本願を改め本気になって政治家に責任を取らせるのか、そろそろ真剣に今までのもたれあい体質を国民全体が止める意識を持たなければいけないのではないでしょうか。ちなみにアメリカでは日本の一般紙(読売・朝日・毎日新聞)のように全国規模で日に何百万枚の発行部数を誇る新聞社はありません。たいがいが地方紙だからです。
この秋学期には他にも大切な経験をしました。洗濯を始めた事、大学の食事に飽きてきた事そして自分を守ることです。さらに言えば大学四年時には家事が殆んど出来る様になっていましたので、十数年後結婚してある年、妻宅で不幸があった時、妻が実家に長期帰宅しても私は日常生活に困りませんでしたし、人間としてあたりまえと思った嫁の実家帰宅が逆に感謝さえされたのです。今でも日本の偏ったしきたりは人間性に欠けていると思っています。
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大学生初の秋学期を経験して(3)
これまで洗濯などした事もなく、洗ったあと、Yシャツやソックスが小さくなって驚きました。コットンやウール品をよく見定めるようになったのはこれ以降ですが、汚れのひどい時は熱湯を使ったり色物は別洗いする等、ただたんに洗濯物を洗濯機に投げ入れば良 いと思っていたのが、注意書きを読むようになりました。男性は一般的に家事について分からないのです。
大学の食事に少々飽きかかった頃、人間はなんて勝手な生き物なのだろうと自分なが らに呆れました。熱さ喉もと過ぎればで、イギリス留学中はひもじい思いをしながら、アメリカでは一学期たらずで食事の種類や量だけではダイニングに行く気が起こらなくなりました。例えば朝食ですがハム・ベーコン・リンクドソーセージ・卵料理数種類・ポテト料理数種類・トースト・ワッフル・バター・ジャム数種類・コーヒー二種類・紅茶・ミルク・オレンジジュース・コーラを含めたソーダ−類数種類そしておかわりは何回でも自由でした。サーロインステーキも夕食には10日に一度はありましたが、きっと味が問題だったと思います。でもこの時の教訓は飢えているぐらいの方がわがままにならない事にも気付きました。イギリスの経験では腹が減ればお米をミルクと砂糖で雑炊にして炊き、干しブドウをちりばめても食べていたのです。私は人間の心理についてこの一件で大事な事を教わったと思っています。どんな場面や状況であっても、“いただきます・ご馳走様”この感謝の気持ちを親は子供に躾けるべきです。そしてその場で与えた食べ物にわがままは言わせない。親について言えばいかなる犠牲をはらっても言い訳をせず、家族と食事を共にする事を“最優先する”この大切さを知らなければならないと思います。
この間色々な事件にも遭遇して痛ましい情報も耳にしました。危機管理を実践していたので驚くと言うよりは、自分がすきを作るのも問題だと考えていました。校内に自転車を止めるときは鉄製のチェーンで自転車のタイヤと電柱等を一緒にロックする習慣や、洗濯している時は洗濯物から目を離さない、そして自室でも現金を人の目にさらさない等、軽犯罪防止には常に“自分を守る事”が重要と考えていたからです。白昼街中で泥棒に刺された情報は心情的に理解できませんでしたが、用心深くなったことは間違いありません。
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大学生として初の冬休みとホームスティ
全教科満足な成績であったことは学期中の苦労を吹き飛ばしてくれ、一つの達成感から、クリスマス休暇を何倍も楽しめました。アメリカの家庭に興味津々で、シアトルのエベレットにあるジョン・フォーストラム宅で休日の半分を過ごさせていただきました。
フォーストラム家はジョンの祖父、妹、両親の5人家族で母親はシアトルの主要産業であるボーイング社に勤めていました。家族の中心は祖父で家族全員が心から大切にしていて、十四〜五年前の日本を思い起こさせたものです。食事の時などはいつも感謝の祈りを奉げるのが祖父の役割で、文言に心がこもっていて張り切って祈っていたのが今でも印象的です。私とジョンは事ある度に祖父からカード(トランプ)の相手を頼まれ、ほとんど毎日2ー3時間はブラックジャック、ポーカーや3人ピーナックルに付き合いましたが、ジョンはいやな顔一つせず、理由をつけて断ることも一切ありませんでした。負けず嫌いな祖父は負けるとカードをテーブルに軽く叩きつけ、勝つと喜びを体一杯に表現し“この手は熟練しないとできんぞ”と勝ち誇るのです。こちらの手がよく、でも一歩遅く上がれず悔し泣きをすると、“Don’t cry、ball”と言ってこけ下ろします。英語の“ball” には驚く程の多種多様な意味があり当時は俗語以外に知らなかった私は“エッ”と思いつつ、後でジョンに聞くと“泣くな、もっと混乱しろ”と祖父の独特なジョークと教えてくれました。
イギリスではクリスマスに大人同士がプレゼントを大々的に交換する場面は一度も見かけませんでした。アメリカでは何歳になってもこの習慣を大切にしていましたが、ヤドリギ(Mistletoe)の下でキスが許される習慣は残念ながらありません。12月10日頃にはクリスマス商戦も盛んになり、町はおとぎの国のように飾りつけられ、色とりどりの電球も所狭まし、と取り付けられました。資本主義の豊かさに感銘を覚えましたが、反面日本では信じがたい労働慣例が定着していました。ある日洗濯機が動かなくなり動力の不具合と判断、修理を依頼しました。実は電気系統に問題があったのですが、修繕に来た作業員は動力の組合員だったので電気関連を直せても直しません。出張費は払わされても洗濯機は動かないのです。クリスマスに突入してしまい、結局洗濯物はコイン・ロンドリーへ持って行くありさまでした。アメリカの合理性に反する社会主義的なシステムには多いに疑問をもちました。
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2学期目もまだ決まらない専攻学部
学ぶことと自身が成長する本当の喜びは“興味ある学問に気楽に向き合って”努力を重ね、その成果として自信と達成感を味わい、同時に生き甲斐と誇りが自然に芽生えることだと思います。人生の意義と自分に対する価値感の構築はこの重要な経験に潜んでいる、これが私の率直な考え方です。親が子供に対して人生のアドバイスを行っても、自分が良かれと思った利己的な希望や意見の押し付けを無理強いしてはならないと考えます。むしろ好きな学問に没頭させ、その結果に対して責任を持たせ弱音は基本的に聞き入れない。自分の掲げた目標は最後まで実行させる事が子供に大きな成長を促す要因なのではないでしょうか。親の必要以上な干渉は問題を複雑化するだけでなく、家族の崩壊を招く可能性があり、子供が立ち直れなくなる危険性をはらんでいます。その実例は留学の仕事を始めた30歳以降、20年以上にわたり親の子供に対する将来の期待や押し付けが悲惨な親子関係を生み出し、人間関係が崩壊して憎しみだけが残った生き地獄を日常茶飯事のように目撃してきました。
私はジムと言うカナダ人と1学期目に知り合いましたが、彼が大学で勉強するのは大学の掃除夫になり、優秀な学生がより快適に学べる環境を提供するために現在学んでいると言ってはばかりませんでした。何のための大学教育なのか当時はばかばかしいと思って議論を戦わせた末に絶交してしまいましたが、今ではジムの主張は立派な意見と彼の意志だったと思っています。価値観はそれぞれ違いますし、掃除夫もいなければ困るのです。ジムの場合その仕事に誇りまでも抱いていたことは、きっと彼の気持ちは間接的であれ、優秀な学生達を共感させたに違いありません。
私は1学期目色々な授業でポジティブな経験をしながらもまだ専攻は決まりませんでしたし、2学期目の春学期はもっと多くの学科に挑戦してみようと決めていました。当時の総合大学の教育は一般教養の幅広い学科の単位取得を義務づけていて、その中 から自分に適した研究に進むよう、形成されていました。専攻を急いで決める必要もなく、余裕を持って自分探しが本格的にできたわけです。この大学システムは自分の基本的考え方の土台を育んでくれたと感謝しています。次回は勉強した内容からどんな教訓を得、どう応用できるのか書いてみたいと思います。
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