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私の歩む グローバル
     

幼稚園に通う
幼稚園時代の思いではあまり記憶にないものですが、二つの出来事があまりにも鮮明だったので、今でも覚えていたのだと思います。私の通った八幡橋幼稚園は園内の遊び場があまりにも限られていたため、毎日の朝礼や体操は通りを隔てた真向かいの八幡神社で行われ、また季節毎の行事などもここで行なわれました。朝8:00の朝礼で毎日目にしたのが境内をえらく丁寧に掃除しているおじさんです。とにかく整理、整頓そして清掃にはこだわりがあり、神社内の植物はいつも綺麗に手入れされていました。掃除が終わり見回してみると木の葉が一枚も落ちていません。更に地面に薄く敷き詰められていた砂には足跡一つなく、それは見事な仕事振りでした。太陽の光を遮断して鬱蒼と覆っていた大きな木々の枝ぷりも、通常であれば薄気味悪い境内に思えたに違いありません。それがこの整然とした環境が、なにか園児心を安心させ、居心地の良い場所にさせてくれたのだと思います。毎日幼稚園が終わり家族の迎えを待つ時はいつも神社で遊んでいました。この経験は将来体験する色々な出来事の積み重ねとの相乗効果で、整理整頓の重要性や、身なりをいつもきちっと整えたり、究極的なところでは父が他界した時、今までのしきたりだった仏式を改め、神道で葬った事にも関係していると思います。後日の国際的経験から私は我々のDNAの中に、本来は神道が日本人の心の故郷で精神の奥深くに刻み込まれているであろうと信じています。
もう一つの忘れらない出来事は、毎日父の会社の番頭さんが初めはスクーターで、数ヶ月後はトラックで送り迎えしてくれたことです。幼稚園の入り口には身長の高い人がおでこをぶつけそうな位置に鴨居がありました。スクーターで園内に乗り入れるのですが、そのたびにおでこを派手にぶつけていました。ある日私を迎えにきた時、勢いあまってスクーターから放り出された事を覚えています。後日分かった事ですが、番頭さんが送り迎えしてくれたのには理由がありました。用水路をはさんだ幼稚園の向こう隣に当時バブコック日立と言う会社があり、朝8:00に購買課を訪問していたそうです。幼稚園に通い始めた頃は営業の開拓を始めた頃で、スクーターで午前と午後の2回毎日通い、朝スクーターで午後トラックになった時は朝注文をいただきに行き、午後製品を届けるためだったそうです。番頭さんの手を抜くことのない日頃の努力と購買課に直接、日に2回赴く事の苦労。とにかくどうしたら開拓先から注文をいただいてコードをもらえるかが毎日頭から離れる事が無ければ、鴨居への衝突もありかなと大人になってから考えたものです。"継続は力成り"も、番頭さんがスクーターを卒業して自分専用のトラックを会社から獲得した事でもあきらかでしょう。
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小学校はセントジョセフ・カレッジに学ぶ
小学校は横浜の山手にあったカソリック系のミッションスクールで、BLUFFホスピタルの近隣にあったセントジョセフ・カレッジ(後にセントジョセフ・インターナショナルスクールと改め、10年前に廃校となり、跡地はマンションに変貌しています)に1955年、入学しました。なぜ外国の学校かと言えば、日本が第二次世界大戦で悲惨な体験をしたのは、先進各国の真の経済力や軍事力をあなどり、無知のまま戦争に突入したからで、二度と同じ過ちをさせないように、次の世代にはインターナショナルな環境で育てようという父の考え方が、私を外国人の中で教育させる基本だったようです。当時は日本人がミッションスクールで外国人と共に学ぶのは稀で、一クラス40〜45名の生徒がいたと思いますが、日本人は6-7名だったと記憶しています。一番多かったのが駐留軍のアメリカ人、次に南京町(今は中華街と言います)の中国人、元町商店街の二世そして各国の大使館の子供達でした。当時は領事館・大使館の大半が横浜にあり、1960年代になって東京に移転するまで、外国の子供達はセントジョセフか、すぐ近辺にあったセントモールに通っていました。横浜の土地柄、港町であったことで外国の船乗りに会うのは日常茶飯事であったし又、駐留軍関係者を常に目にしていたので、外国人と共に学ぶ事に対して、特に違和感を覚えた事はありませんでした。それよりもきのどくに思えた事は、一般的風潮の中であいの子呼ばわりされて、偏見の眼差しで、この子達の程度が低いと烙印を押されたり、韓国国籍の二世・三世に対しての差別も大変なもので、これは当事者にしか分からない本当に悲惨な状況で今でも鮮明に記憶しています。今の“冬のソナタ”など考えるすべもない時代でした。そんな背景の中で私は、世界各国の子供達と伸び伸びと学ぶ機会を両親から与えられました。
セントジョセフでの印象は、人間として約束を守る事や約束を守らなかった時の罰とはなにかを教わった小学校低学年、文化と表現力を教わった小学校中学年、そして本来教わるべき、競争力とは何だったかが、“挫折”とは何かを肝に銘じてこの時期教わりました。次回はこのそれぞれの時期について書いてみたいと思います。
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何もかも目新しく、きびしい小学校低学年
小学校に入学して始めに驚いたのが中古の教科書を学校から代金を払って借りることでした。さらに、この教科書に長方形の紙カバーを買ってはさみをいれ先生の指導を受けながら自分でカバーを作ることを教わりました。物の無い時代でしたが、セントジョセフは比較的裕福だったと思います。鉛筆もナイフを使って自分で削りました。とにかく自分で使用するいかなるものも大切に取り扱うこと、総て自分で実行するのが学校生活を始める上での約束事でした。ルールはまだ他にもあります。授業と授業の間、クラス移動する時、無駄口は一切禁止でしたし、廊下を走ってもいけません。また、日本語を話す事も厳禁でした。制服は特にありませんでしたが、公衆にでかけるわけですから、誰から見てもきちんとしていること。つまり、靴は磨 き、きちんとはき、ズボンとシャツは綺麗に洗われアイロンがかかっていなければなりません。私は自分で靴磨きをしましたし、洗濯は母にしてもらいましたが、アイロンはこの頃からかけていました。こうして一定のルールを守ることによって集団生活の秩序を守り、文明人であれば理屈の通った学校のルールを皆で尊重することを学びました。
朝8:00時の朝礼後、整列してマリア像の前でお祈りをささげ、その後は整然と二列になって建物に歩いてはいりました。カソリックの学校でしたので週3回、1回一時間のキャタキズムと言う旧教の勉強があります。朝の朝礼後のお祈りは、気持ちを謙虚にさせ学校が始まる前の心の準備に役立ちましたし、週3回のキャタキズムは、いったい誰がバイブルを書いたのだろうと思うほど、物語に魅了されました。ただ、バイブルに登場する聖人達が最後に神との約束を破り、罰せられる事にいつもなぜだろうと思いました。
学校生活の中で一番緊張したのが約束を守り規律を乱さない事だったように思います。宿題の提出厳守、クラスの移動時間厳守、九九のように覚える必要のあるものは、決められた月日までに先生に発表しなければなりません。約束を守れない時は体罰がありましたが、これはみせしめとか陰湿 なものではなく、約束を守れない自分の責任であることが先生とのやりとりや、態度、目の動きではっきりとしていました。約束を破ると定規で手の甲をたたかれました。また学期末は毎回大イベントがあり、校長先生が各クラスを回り通信簿を持ってくるのですが、成績の良い生徒は祝福され、悪い者はその程度によって、前屈させられ木の鞭で尻をたたかれ、時には木が折れる程でした。こうして成長していく上に必要な躾をしっかりと身に付けさせられたと思います。
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西洋人の文化的原点にふれた小学校中学年 その1.
私は、子供というものは純白なキャンバスに色を塗っていくようなものだと考えています。躾られる本人はおぼえていなくても本能的に、潜在意識に経験が深く刻まれるのが、生まれた時からはじまり、小学校時代の家庭と学校経験だと思います。小さい頃の躾は特に大切ではないでしょうか。良いことは良いと祝福されたり、褒美に盾や賞状はたまた記念品をいただいたりすることは、その子供の励みになるし、一生忘れないものです。反対に時には体罰があっても叱られる事と、叱られる意味を知る事もバランスある人間造りに大切な条件ではないでしょうか。体罰が伴ったのは小学校4年までで、年齢でいえば10歳までだったと思います。家庭での体罰は小学校卒業まで、ティーンエイジャの13歳以降はなかったと記憶しています。
英語力も益々必要で勉強もハードになりつつあった小学校3年生。両親は、思うように英語が上達しなかった私の環境を変えようと学校の寮に2年間入れました。日常生活から英語浸けにしたほうが本人のためには良いと考えたのでしょう。家に帰れるのは金曜日の夕方で日曜の夕食にはまた寮に逆戻りでした。寂しさに気が付いたのは、金曜日家に帰る時のわくわくした気持ちとはうらはらに、日曜寮に帰る時の気落ちした気分でした。毎週金曜日の晩だったと思いますが、プライムタイムにディズニー映画が放映され、未来・自然・漫画いずれかの世界を一時間見られる事に無類の喜びを感じていたことを今でもしっかりと覚えています。寮生活は家族の大切さを教えてくれ、またディズニーの映画からはどんなきっかけでも良いから、希望を持つ事に自ら目覚める重要性を学びました。ディズニーの発想、独自性そして人間味豊かな思考は、心底勇気と希望を与えてくれたと思います。
寮生活では2つ忘れられない出来事がありました。一つは毎学期一回実施される火災・地震訓練です。その演習に参加している我々生徒にとっては、起こされる時間帯が午前2から3時頃だったので、寒い中、どうしてこんなにも頻繁にやるのかなと思いました。おもてに避難すると必ず点呼をとるのですが、いつも同じフィリピン国籍の生徒が訓練に気付かず、寝たままでした。この経験は後になって、万が一のことを常に考えることの大切さを身に付けるきっかけとなりました。つまり自分の危機管理に結びついていることに気付かされたのです。もう一つの出来事は、週末が終わって寮に帰ると、母親が焼いたクッキーを持ち帰ってきた外国人がそのクッキーを売っていたことです。まさか母親が作ってくれたクッキーを売るなど考えたこともありません。でもこの経験は、価値観が一つではない事を如実に教えていたのだと思います。
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西洋人の文化的原点にふれた小学校中学年 その2.
学校は給食が一切無く、いつも母親の手造りのお弁当と布ナプキン、それにナプキンリングは必ず持参することが校則で決められていました。外国人がお弁当を持ってくるランチ・ボックスがとても羨ましく、ブリキでできているのですが、とてもカラフルで、しかも当時テレビではやっていたローイ・ロジャースやローン・レンジャーの絵が描かれていました。テレビ放映は白黒でしたので、なおさらほしかったのだと思います。反面驚いたことは、毎日のように棒状に切った人参やセロリーを生のままおいしそうに食べていたことです。セロリーは食べたことがなく、ちょっとつまませてもらった時は、こんなまずいものをどうして食べられるのと思ったほどです。食事は質素で大半の生徒はサンドイッチを持参していました。中身は今まで見たことのないペースト状のピーナツバターやストローベリージャムそしてチョコレートでした。これだけは子供心にもおいしいものを食べているなあと思いましたが、おやつの一つにリクリッシュというのがあって、これはとてもいけませんでした。棒状でねじれた感じのロウソクのような触感で、チェリー味といっていましたが、味わったことのない香料は、鼻について今も忘れません。
寮生や昼食を持ってこられない生徒は、学校のキャフェテリヤに唯一ケータリングサービスで食事とデザートを収めていた元町のキクヤに週一度、金曜日の午後、来週一週間分の飲み物、ランチとデザートをアラカルトから選んで申し込みました。この時の習慣は今の我が家に多いに反映されています。外食で出かけると、見事なまでに誰一人として同じメニューをオーダーしません。
学校では、通常の教育の他に文化や芸術を大切にしていたと思います。まずはペンマンシップといって、3年生の時、徹底的に字を綺麗に書くことを教わりました。さらにゴシック文字を特殊なペンでヒゲ文字にして書くことも教わりました。この経験は自分の国の文字に敬意を表し大切にすることと、文字は服装同様、自分の性格や個性をそのまま表すと認識しました。中学生の時、自分でペン習字の練習本を購入して、漢字やひらがなを練習したものです。
小学生4年以降は、学校が推薦する映画を結構見ました。見た後は必ず感想文をかきました。見た映画の中では"オーケストラの少女"、"マルセーリノ"、"十戎"、"スパルタカス""モーゼス"のような作品が今も頭の片隅にあります。いずれも心に残る名作だったと思いますので、チャンスがあったらみなさん見てください。
この時期、私は将来本気になって牧師になることも考えたことがあります。
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第二次世界大戦後の生活状況
ここでいったん当時の生活をかえりみたいと思います。私が生まれた頃は物が本当に不足しており、1950年に朝鮮戦争が勃発しなければ日本も社会主義国になった可能性もあるほど貧乏でした。米国が日本に経済援助を行ったのも、それを恐れてのことといっても過言ではありません。日米安全保障条約の調印が1951年、白黒テレビが初めて放送開始されたのが1953年で朝鮮戦争が終結した年です。近所に住んでいた叔父の家で早々と購入したので、夕食が終わると縁側にすわってテレビを見せてもらったものです。
当時どれぐらい貧乏かといえば、自然になる柿は渋柿でも誰かが取ってしまいます。今は自然の柿を取る人はいない。そして、秋に山手線に乗り外の景色を見ていると、熟した柿が目に入ります。おばあちゃんも叔父さんと隣に住んでいましたが、おばあちゃんの大切にしていたイチジクの実も食べごろかなと思ったときには、盗まれていました。赤ん坊の布オムツもボロ布が不足していましたので、綺麗に洗って干しておくとなくなる時代でした。冷蔵庫は木の箱でできていて、夏は毎日氷のかたまり一貫(約3.75キロ)を氷屋さんに届けてもらい、食品を保存しました。冷蔵庫のない家のほうが大半だったように記憶しています。調味料などは、隣から借りたり、時には貸したりしました。暑い日は冷房自体がまだありませんでしたので、窓を開けたまま寝るのですが、蚊が多かったので、天井からかやを吊って家族全員がその中で寝ました。これは皆で毎晩かくれんぼをしているようで、楽しかったことをよく覚えています。ちょっと汚い話ですが、トイレはくみ取り屋さんが定期的に回ってきて、長い柄のついたひしゃくで、汚物をすくうのです。トイレで用たしをしているときに下でくみ取りをされることも多々ありました。
冬場はフトンに湯たんぽをいれました。陶器のいれもので長円形にできていて、熱いお湯を入れます。それを手ぬぐいでくるみ火傷をしないようにして足が暖まるようにかかとあたりに置きました。ご飯は炊飯器のない時代ですから、お釜でたきました。ある夜食事が終わって、しばらくしてお勝手に行くと、お手伝いさんがお釜にこびりついたご飯にお湯を浸しふやけたところを手でつかんでいました。何をしているか聞くと、お百姓さんが苦労して作ったご飯を一粒もむだにはできなないと言い、残りをきれいに食べました。私は、その時以来お米を一粒たりとも無駄にしたことはありません。
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思い出いっぱいのアメリカンスクール
芸術的には油絵や当時では珍しいリトグラフなどを教わりましたが、教育はやはり先生から影響を多いに受けるものだと思います。音楽の先生はフランスからきた牧師で、ブラザー・エロキヨといいました。フランスの童謡をたくさん教わりましたが、集中力のない生徒がいると小さな鞭でたたくのですが、場がしらけないように皆で歌っている曲そのままを詩だけ変えて本人だけを叱るのです。この癖は私の身にしっかりとついてしまい、家庭ではそうすかんをくっていたものの、全体的には緊張感をやわらげながら、言いたいことは子供たちに伝達できたと思っています。
いずれにしても、誉めることについては生徒を確実にその気にさせたと思います。油絵で良い作品ができると、まずクラス内で皆の批評を聞きながら、最後はなにが良く、場合によってはなにが欲しかったかをはっきりさせ、その日はクラス内に飾ります。月一回の展示会には、その作品を廊下に必ず展示して、全校生に見てもらうのです。社会人になってから、あの教育体系はたいしたものだったなと多いに感じました。"教育は一日にして、まさに成らず。しかしながらいかなる道も生徒の健全な育成と成長に通じています。"これが教育の真髄です。この体験は学校の歴史とか内容がいかに重要で、有名大学への進学率の高さは学校の質にまったく関係ないと確信させられました。
スポーツにおいては、当時まだ一般的にはそれほど普及していなかったバスケットボールやサッカーが主流で、特にサッカーは力を入れていて、その実力はオリンピック代表と戦うほどでした。スペイン人のブラザー・ザバラの熱血指導は評判で、成人相手の試合はザバラ自身も常に熱く戦っていて、それもその先生が人気のあった理由だったと思います。
友達関係では、ドイツ人のエンドレー、日本人の岡田、アメリカ陸軍将校の息子、ダッフィーその他何人かと友達になりましたが、思い出は現在本牧のマイカル地区にあった進駐軍居留地に入った時でした。軍服はかっこいいし、乗っている屋根無しジープもさまになるし、サングラスと帽子も本当に似合っていました。居留地にはPXがあって食料の必需品はここで購入していたようです。物の豊かさは目をみはるばかりで、子供のおやつも溢れるほどありました。漫画で包んであるチューインガム、エム・アンド・エム、ロリーポップス、リクリッシュ、ミルキーウェイ等々数え切れないほどのおかしのオンパレードです。友達の自宅にはコカ・コーラがケースごと置いてあり、好きなときに飲めるんだなあと思うと、とても羨ましくなりました。先進性はこれだけではありませんでした。ある日、台風が関東に影響を及ぼしかけていた時進駐軍居留地にいたのですが、ダッフィーのお母さんがすぐに帰えるようにと言われました。その理由は居留地内に揚がっていた旗の色でした。色によって台風に対する準備を呼びかけていたのです。予報は関東直撃で、屋根に板をうちつけて補強する指示がでていたそうです。その後台風は直撃しました。驚くばかりでした。
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小学生時代のまとめ
小学校の思い出として、自分を見直すのにいつも役だつことが一つあります。5年生のとき、英語のクラスでジャーナルを毎日つけることを義務付けられました。英語の上達が目的です。これにはひたむきな努力が必要ですが、自分が成長していく過程においてとても大切だったと思います。私は英国の高校を卒業する20歳まで続けました。若い人達は是非一生涯の課題として書いてみてください。
日本の学校にはないことばかりの日々でしたが、総てが順風満帆ではありませんでした。私の祖母が亡くなったとき5年生でしたが、そのとき目にした祖母の脚の細さに恐怖すら感じ、脚と体を鍛えようと自転車を買ってもらい、それに乗って毎日学校へ通いました。5年生が終了した夏、元町プールに通いました。台風の日も通い、たぶん一日も休まなかったと思います。6年になり冬が近かずくと、痛みが関節を襲い、この痛みが盲腸にとんだとき、医者は盲腸と判断し即刻手術との診断をくだしました。母はこの結果に懐疑的で、私を連れて帰り翌日南区にあった小児科に直行しました。診断はリュウマチ熱で、痛みが心臓にとぶと心臓弁膜症になり、そのときは一生車椅子になるとのことでした。
闘病生活は一年におよびました。あるとき4歳年下の妹が"かたわ"呼ばわりしたとき、はいずってもつかまえるつもりでしたが、当然つかまりませんでした。この言葉は一生忘れません。この経験で、寝たきりの人に対する思いやりの気持ちが、自然にはぐくまれました。不思議にも、けなされた言葉が、"なにがなんでも良くなる"と強く思うきっかけになったのをよく覚えています。
一年のブランクは大きく、セントジョセフに6年で復学して通い始めた翌年の冬、理解力が不十分で学校を退学せざるをえませんでした。人生における初めての挫折でしたが、同時になにか肩の荷がおりたような気持ちでもありました。
親には一生涯感謝の気持ちで一杯ですが、最も感動し、人生で初めてあれほど感謝の気持ちを持ったのは、玉川学園に入学させていただいたときでした。
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日本の学校−玉川学園へ入学
1962年1月末、本当に寒い快晴の朝、両親と共に面接を受けに玉川学園へ向かいました。私のリュウマチ熱はとりあえず痛みは癒えたものの、再発はありえるし、心臓弁膜症も起こりうる状況でした。心電図は心臓の不整脈を確実に感知していましたし、1950年代の車のエンジンがときたまガソリンを吸いすぎてドック・ドックといってエンジンが止まりかけるように、時々心臓が一定の鼓動をせずエンジンの不確実性と同様の現象が現実におきていました。そんな体の状態でしたが、玉川学園に到着すると敷地の大きさ(59万平米)と、自然の豊かさそして澄んだ空気に感動しながら、石ころだらけの道を10分近く歩いて中等部へ出向きました。
面会していただいたのは中等部の部長岡田陽先生で、身長も高く、スーツもきまっていて外国生活の経験があるような風貌でした。私の父も当時としては大変おしゃれで、服は総て英国の生地でつくり、身長も180センチありましたが、ダンディーさは二人ともいい勝負でした。30分も会話が続いたでしょうか、私も岡田先生の質問には率直に答えましたが、この限られた出会いだけで"引き受けましょう"とあまりにもあっけなく入学が決まりました。それも中学2年生で大丈夫ということで、母が中学校に行った経験がないことをつげても"英語ができるお子さんは大丈夫ですよ、しっかり勉強して下さい"と言って誰に相談するわけでもなく合格が決まったのです。
学園入学後"服装は人格をあらわす"、"家族にあえば家庭環境がわかる"と言ってはばからなかった小原國芳園長の礼拝でのお言葉はまさにこのときのことを語っていたと思います。父が面接に出てくれたことに感謝したし、やや恥ずかしかったですが、後日、父母会長も引き受けました。この経験で、私が大人になり子供ができたらどんな場面でも、学校の面接を含む学校行事に必ず出ることをこの時、心に誓いました。
その場で決まって、入学できたことは本当に気持ちを晴々とさせてくれたし、一つのすがすがしい覚悟と自覚をしっかりと与えてくれたと思います。
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いよいよ学園生活
不安ながら学校に望んだ初日、そんな気持ちをいっぺんに吹き飛ばす玉川の、今でも敬服する習慣がありました。まずは朝礼で校歌を歌うのですが、全校生がそれぞれのパートで校歌を綺麗に歌い分けるのに、いささか驚かされました。今日、考えられますか、700人弱の全校生が朝早くからハモルのです。これは朝礼でマリア像の前で祈りをあげること以上に、腹の底から声を出すわけですから、勉強をはじめる前の準備としてはこれほど効果のある運動はありません。さらに朝礼が終わりクラスに入ると新入生の紹介をしていただき、間髪いれず"歓迎の歌"で迎えてくれたのです。これも当然ハモリます。"ラン・ラー・ラン・ラー・ランうれしや我らここに、新しき友を迎え・・・"と言った具合です。これだけに留まらないのが学園の素晴らしさだと思いました。それは、学校生活を充分知っている同級生二人を案内役としてつけてくれたのです。今泉君・秋本君は私の新しい学園生活が始まるとしっかり説明してくれ、迷う事は何一つありませんでしたし、友達にもなってくれました。こんな調子ですから学校開始初日から不安もなにもなくなりました。
玉川学園がどれだけ教育に熱心だったかと言えば、生徒だけではなく生徒とかかわる総ての"人""物""事"を実に大切にしていた事だと思います。先生についてニックネームのない先生は一人もいませんでした。それでいて先生は生徒から皆尊敬されていました。ちなみに私のクラスの担任は美術の佐藤先生でしたが、いつもなにか汚い格好をしていたので"西洋こじき"と呼ばれていましたが、それを知りながら意に介しませんでした。同じように保健室の安岡先生は生徒に怪我があればすぐ赤チンなので"赤チンババー"、英語の菅浪先生は牧師ですが髪を7:3にわけサラリーマンにしか見えないので"にせ牧"、社会科の坂本先生は"九"さん等々です。部長先生も"岡ちゃん"でした。
クラスも何年何組ではなく、総てのクラスを世界各国の山脈の名前で呼んでいました。私のクラスは崑崙でしたので、どこにある山脈なのか調べたものです。人間の教育にかかわることは、なに一つ、はしょらない。これが玉川精神の実感でした。歌で始まり歌で終わる一日。常にどこかで生徒の合唱が聞こえていたような気がします。
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偉大なる哲学者・教育者・経営者 小原國芳学園長
小原國芳学園長を語るとき"立派な教育者"という一言では語りきれないのが"國さん=おやじ"であったと確信します。"世界の歴史"に名を残さなければならない偉大な人物の一人と私は考えます。常に本物を追求し、文化を大切にし、国家の原点・民族の原点は教育にある。そして"さらに"教育は自ら望む者にたいしてそのチャンスを与える。
芳学園長がどんな教育を受けらたのか大変興味をそそられましたし、"おやじ"の壮大な理念・理想を感じずにはいられませんでした。しかも日本人として、世界にこの民族ありという確固たる哲学を持って、全人教育に取り組んでおられたと、私も近年の経験と世界観を身につけ、理解しはじめました。
教育を望む者が諸事情により学校に通えない(例えば身体障害者・外国人二世・当時の韓国・中国人籍、時代の背景で教育を受けられなかった者など)個人・生徒に通信教育を積極的にほどこした教育者があの当時何人いたでしょうか。普通どんな事業を始めるにもまずは余計なことは考えず本業をまっとうする、これが精一杯ではないかと思います。かつてセントジョセフにいたころ、キリスト教を普及させる、知性をもたせ教育をほどこすために牧師がその生涯を異国で、その一生を閉じ、山手の外人墓地に葬られる彼らの精神に、外国人の偉大さを感じずにはいられませんでした。当時あるブラザーが亡くなり葬式に参加したとき、深く尊敬の念を持ったことを忘れません。それに似た意識を玉川学園設立者の哲学に感じずにはいられませんでした。すでに1950年頃には通信教育を始めていたと知らされ、二度驚きました。現在は生徒数が減っているので通信教育を実施している学校も多々みうけられますが、教育の原点をみすえて玉川を興した"おやじ"の偉大さを感じ、聖山の礼拝堂で行われる"おやじ"じきじきの講義・ミサをいつも楽しみにしていました。
玉川学園のモットーは"人生の最も苦しい、いやな、辛い、損な場面を、真っ先に微笑をもって担当せよ"。日本に本来あった文化に今はなにがかけてしまったのでしょうか。
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教育の宝庫 玉川学園・その(1)
玉川の第一印象は自然の豊かさです、とすでに書きました。昨年40周年の同窓会があり学園に出かけたのですが、ISO 14,000を取得したと聞きました。"おやじ"の本物の教育を追求する哲学は不変であり、しっかりと受け継がれていることにある種の安堵感を覚えました。これは環境保全の丸適マークで、教育を受ける生徒・学生に最適な自然環境を提供していることの証です。けた違いな校地面積を考えますと生徒・学生の労作だけでは到底維持できると思いませんが、だからといって手を抜きません。自らをそう言った環境においているのです。本物の教育にはしかるべきお金がかかるのは当然ではないでしょうか。
次の印象は、当時、学園を歩くと心地よいアカデミカルな雰囲気が感じとれたことです。小学校の校舎前には、デンマークの有名な童話作家ハンズ・アンデルセンが腰掛けている銅像があり、また、坂をあがり始め右に高等部のグラウンド、左に目をやると小田急線をはさんで左右に学園の敷地がありましたが、いちばん生徒・学生にとって便利な掛け橋には松陰橋と命名してあり、吉田松陰の銅像もありました。玉川精神の一部を垣間見ました。吉田松陰については、どのような人物だったのかその後文献を読み、大変な刺激を受けたと思います。29才の若さでこの世を去りながら、明治維新の立役者に門下生があれだけいた人望の持ち主。時代の背景もありますが、それだけでは人は動きませんし、明治維新は達成できなかった事でしょう。そこには最後まで人を動かす"教育真理"があったと思います。
"おやじ"の実施する活動は、私が見て知る限り、常にナンバーワンでした。1930年、スキーの世界では最高峰であったオーストリア・スキーの第一人者ハンネス・シュナイダー氏を学園に招聘しており、私が中学校3年の1963年にはオーストリア国立スキー学校長クルッケンハウザー教授とデモンストレーターを招聘しました。そのスキーパフォーマンスには感激したものです。玉川は当時から世界ナンバーワンのスキーを取り入れていました。体操も1931年にデンマーク近代体操をとりこみ、これも玉川の伝統になっています。音楽の世界では1937年、当時第九指揮者の第一人者であったヨーゼフ・ローゼンシュトックの指揮のもと、玉川初の"第九"の合唱をおこない、今も年末に恒例として歌っています。1952年ノーベル平和賞を受賞されたアルベルト・シュバイツァー博士婦人が1963年学園に招聘され、南アフリカで黒人の医療に尽くしている博士の功績をたたえ、"おやじ"は当時最先端の電子顕微鏡を寄贈しました。私には何もかもが感動一杯でそれぞれが深く印象にきざまれ、玉川の生徒であることに誇りを感じました。
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教育の宝庫・玉川学園その(2)
玉川には感銘を受けた多くの教育指針の中で、まず初めて経験したのは木工です。厚さ約4センチの楕円形に近い木材に"夢"の文字が書かれており、その文字が浮くように周囲を彫りさげます。美術教室にはその他バイオリンが製作途中でいくつもおいてあり、玉川学園駅前の学校の購買部で同じ"夢"の作品やバイオリンが売りに出ていたのを見た時、なるほど木工が好きであればこれで生計もたつなと感心させられました。
一年を通して労作、自由研究、そして週番というようなシステムがありました。労作は中学校を取り巻く自然環境を生徒達がクラス単位で先生の指導のもとに手入れをします。自分にかかわる周辺の状況を無視しない。むしろ積極的にかかわることのトレーニングにつながります。この経験は後にイギリス留学したときに、友達創りに役立ちました。
自由研究は自分の得意分野をさがすことによって、個性を伸ばすための試みだったと思います。学校が広く与えた学業分野から、自分が選んだ学問の研究を三年間通して実施し、毎年中学部展において作品を発表して外部に公表します。最優秀賞は小原賞としてもらいました。中には二科展や私のように東京都の中学部英語の弁論大会に参加したこともありました。優勝するのはあたりまえでしたが、帰国子女もいたりする中、やはり賞を大勢の前でいただく事は多いに自信につながりました。
週番制度としては、決められた生徒が一週間早めに学校へ行き主に鍵の開け閉めと、校舎全体の管理をします。冬は自分のホームルームが木造の場合、ルームメイトのためと昼には皆が暖かいお弁当が食べられるように、だるま型ストーブに火をおこし部屋を暖めておくのです。ストーブの隣には金属で作った弁当乗せがありました。学校に通い始めて三ヶ月もしないうちに、学園と中学部生に対する感謝の気持ちを形で表したいと思い、毎朝五時には自宅を出て六時半頃学校に着くと、全校の鍵を開けて歩きました。勿論冬場はホームルームのストーブにも必ず火をおこして部屋を暖めておきました。私のよくなかった体調はこの時期みるみるうちに回復にむかっていました。私の弁当を準備してくれた母の四時起きにも、心から感謝しています。
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教育の宝庫・玉川学園その(3)
玉川学園の中等部では、生徒に学校のあらゆる活動を通じて自信をつけさせ、達成感を与える事で価値観を形成させ、それぞれの生徒が豊かな情操を養う教育を実践していた。私が学園生活で経験させてもらったことについて、ここではもう少し皆さんに付き合っていただいて、さらに色々と書いて見たいと思います。
まず初めに学園生活が始まって半年もしないうちにかなりの部分健康を取り戻すことができ、さらに夏休み臨海学校に参加する事で自分の健康に自信を持ちました。これは岡田部長先生の配慮によるもので、きっと私の健康をかげながら見ていてくださったからだと思います。遠泳参加を許可してくださったことと、クロールしか泳げない私をしんがりにして泳がせました。さすがに3,000メートルは泳がせてくれませんでしたが、1,500メートルに参加し、無事泳ぎきりました。健康を取り戻したことは何事にも変えがたく、心の芯から喜びがこみ上げてきた事を今でもしっかりと覚えています。
夏休みは、この他に学校で合宿があって校舎に泊り込み、労作に励みました。2年の時は木造校舎の中庭にピーターパンの池を皆で協力しあいながら製作しました。夏休みが終わって学校へ行くと、夏中かけて創ったピーターパンの池が中学生全員の労作の結果、出来上がっていました。大きな達成感と自信そして一体感を意識したことは言うまでもありません。3年の夏はアトラス池を全校の生徒の協力で創り、私は臨海学校でまたしてもしんがりをうけもちクロールで3,000メートルを泳ぎきりました。
冬休みは学校主催のスキー学校へ2年から参加しました。スキーは一度も経験したことはありませんでしたが、世界一流のオーストリヤスキーのデモンストレーションに大変感動して、無我夢中になってまねをしたものです。おかげさまで、3年時のスキー学校ではパラレルができるまでに上達し、その3年後にスイスアルプスにまで行って腕を磨きました。
玉川学園が基本とする一流の教育哲学。この哲学にうらづけされた教育指針は生徒に確実な価値観を形成させ、大人になるための本物をみわける、そして自らが実践・実行する思考を与えたといえます。
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教育の宝庫・玉川学園その(4)
玉川学園は1962年私が中学に編入した時、すでに小学校では英語教育を実施していました。中学では特英があって英語ができる生徒はさらに英語力を磨きました。このクラスには10名も生徒はいなかったでが、少数の生徒にもかかわらず能力を伸ばすために、学園は在米何十年という日系の先生を雇用していました。小平幸子という名前の先生は、大変流暢な英語で教えていました。実はこの方のアドバイスで将来私がワシントン州立大学へ行くきっかけになったのです。
このクラスからは私を含めて少なくとも3名がその後、海外留学しています。それほど小平先生から刺激を受けたものです。ある時宿題の一つにwhichを使って文を書きなさいというのがありました。私は"Which is which"と書いたらもっと努力しなさいと叱られましたが、他の生徒には"文は短いですが、言葉で遊べるようになる事は特に外国語を学ぶ上に必要です"と言われ、文法にはこだわらず柔軟性に富んだ皆を巻き込む授業を実施しました。先生の日頃のお言葉は"語学は習うより慣れよ"でした。玉川学園は、極端な型にはめない自由な教育をあの当時から実施していたのです。
小原國芳学園長の礼拝堂での講義は今まで書いてきた内容の多くが含まれていますが、さらに玉川を去った何年も後にまですごい"おやじ"だと感動させられた礼拝でのレクチャーがいくつもあります。それは、学園長が生徒に話したことは必ず実行したということです。学園内の道は舗装する、女子短大を建てる、農学部・工学部を建てる、高等部にオリンピックサイズの50メートルプールを造る等、当時は"ほら吹きおやじ"とも噂されるほどそれは誰の耳にも不可能、夢のまた夢と思った事です。それでも年を追って学園内の道が舗装され、女子短大ができて、工学部が着工され始めたときには、"ひょっとして全部出来ちゃうんじゃない"と思ったほどです。50メートルプールは留学して数年後学園をおとずれて、高等部で発見しました。
中等部2学年そして高等部2学年半、驚きと感動、そして玉川が誇る教育理念が私の基本的な人間形成にどれだけ影響を与え、人間として何をするべきかその確信にせまる真実にふれる機会を与えてくれたと思います。その真実を実践で体得するため高校3年の後期、海外に留学することになります。
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中学時代のまとめと1963年の時代背景
玉川に入学してからの中学2年間はアッという間に過ぎ去ってしまったような気がします。15才までの人生で、あれほど印象に深く刻まれ充実した生活を心から楽しんだ事はありません。中学3年の時には体育祭でマラソンにも参加して多少の不整脈はありましたが無事完走、体力的には大変な自信が生まれました。中学最後の学期は学業成績もめきめきと上がり、毎回学期末には全校生徒の20傑が中学部中央のわたり廊下わきに張り出されるのですが、トップ20には入れなかったものの、20位の生徒の成績にコンマ2とか3低く私の名前がのらなかったので、21か22位ではなかったかと思われます。卒業式では卒業生の一人として英語で答辞を受け持たされましたが、感動の涙でスピーチが前に進まず岡ちゃんに"しっかりしなさい"とやさしく励まされてようやく終わることができたのが、実態でした。式が滞りなく終了し下級生の拍手とかけ声の中、卒業生は花道を歩いて礼拝堂を退場しました。卒業生は制服の一部である帽子を歩きながら高らかと放り投げて下級生に残していくのですが、目を真っ赤にはらして涙が止めどもなく頬をつたわり、周りの誰もがよく見えないままにおもてに出たのを覚えています。あの感動は一生涯忘れる事はないでしょう。そして式に参加した全員でいくつもの学園歌をきれいに合唱したのも皆の一体感を強め、忘れられないすがすがしい思い出になったと信じています。先日、中学卒業以来40周年を迎えたと聞かされましたが、同窓会に参加して学園に足を運んでも、昔取ったきねづかで、なにかあればすぐ合唱でしたが、しらけることもなく全員即合唱に参加しました。皆があの当時の同じ思い出を共有していて忘れないからだと思います。
私が生まれてから15年が経ったわけですが、1950年代後半から日本は破竹の勢いで経済発展をとげていきます。1963年は東京オリンピックの前年でしたが、私は"日本"と"国民"双方が国の発展にたいして、自信に満ち溢れていた事を肌で感じていました。あの当時がおそらく、国家としてそして国民が自国を築く担い手として、まったく驕りを持たず倫理観と文化を無意識のうちにもしっかりと自覚・認識して、国民としての一体感を日本中がその活力と精神力で覆っていたのだと考えています。
次回はもう少し時代背景について語ってみたいと思います。
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続1963年の時代背景
当時の日本は今の中国のように、2桁経済成長を何年も続けていました。後に欧米で見た物質的豊かさにはおよびませんでしたが、日常生活では結構恵まれはじめていたようです。オリンピックを翌年に控えて東京はみるみるうちに町並みが整備され、紙一つ落ちていないといっても過言ではないほど国民が気持ちを一つにして、海外からのお客様に恥じをかかないように美しく魅力のある日本造りに邁進していました。日本はそれを実行するだけの経済力・技術力をすでに備えていたと思いますし、また国民にも当時社会的マナーがあって皆が全員参加していたのではないでしょうか。
ビッグプロジェクトとしては、オリンピックに間にあうように高速道路が目に見えて作り上げられて行き、また東海道新幹線も開通に向けて、ぞくぞくと建設が進められていました。国家にはっきりとした方向性がある時、見事なまでに国民に崇高な建国意識が芽生えるものなのでしょう、私はそのエネルギーを肌で感じていました。1963年はまたもう一つ興味深い壮大なプロジェクトがアメリカで進められていました。それは、年内衛星放送を通じて画像をリアル・タイムで送ってくることでした。日本の先進性に誇りを抱いていた私は、そんなことが本当にできるのか半信半疑でしたが、忘れもしない11月22日金曜日、テレビ画像の第一弾がアメリカから日本の茶の間に届きました。その第一弾はショッキングで、テキサス州のダラスでケネディー大統領が暗殺された内容でした。前年1962年の10月27日土曜日、ソ連がキューバにミサイル基地を作るためキューバに船で接近しましたがそれを察知したアメリカは軍を派遣、戦争か平和かを迫りました。世界の誰しもが世界戦争の危険性を感じ取り、かたずを呑んで状況を見守りましたが、若い大統領ながらケネディーは見事に阻止したのです。
日本の先進性か、放送衛星を打ち上げるアメリカか、どっちが社会全体としてすすんでいるのだろうかと率直にこの時期思いました。またケネディーが撃たれたとき血しぶきがはっきりとテレビで見て取れ、報道があまりにもリアルで何回も放映しながら暗殺の分析をしていましたのでどんな国なのだろうと興味も持ちました。高校2年時に玉川でアメリカへ行く機会がありましたが、そのときの体験はあとで必ず書いてみたいと思います。
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玉 川 学 園 高 等 部
こぢんまりとした家庭的雰囲気のあった中学部とは異なり、高等部は環境が一変したと感じましたが、相変わらず歌があり、自由研究があり、労作がありと、その他もろもろの教育方針は中学時代と変りませんでした。当然大人の雰囲気が漂う年齢なので環境が一変したと感じたのだと思います。部活は6人制のバレーボールに参加しました。当時はまだ主流が9人制でしたのでかっこいいと思って始めましたが、毎日帰宅が遅く、眠気が襲 い勉強に手がつかなくなり、一年でやめてしまいました。部活はやめたものの、勉強より異性に興味を持ち始めたのもこの時期で、残念ながら玉川ではガールフレンドを最後までつくれませんでしたが、勉強時間は中学部時代と違ってかなり少なかったことと思います。
それに代わってと言っては語弊がありますが、この時代洋画はよくみに行きました。エリザベス・テーラー主演のバターフィールド8とかクレオパトラやジェリー・ルイスの珍道中シリーズそしてエルビス・プレスリーシリーズ等、大人の映画や喜劇を友達とかなり見ましたし、ボーリングにもけっこう通い外国文化とか娯楽にとっぷりつかっていました。高等部一年時に東京オリンピックの水泳自由形でドーン・ショランダー選手がなんと4つの金メダルを取るなどで、アメリカへのあこがれと日常のお遊びに刺激され、さらに興味を抱いたのは間違いありません。
そんな中、玉川インザUSA計画、第一回留学生派遣の募集が高校2年の時ありました。短期の英語研修でしたが、日常生活にかなり自己不満と自己嫌悪を持ち始めた頃で、即、飛びつきました。総勢38名で、大学生唯一人の今井さんを先頭に中学生も一人で英語力に大変優れていた玉川君、あとは全員高校生でした。目的地はイリノイ州の北西部に位置する人口9,000人弱のマンモス市で農村地帯の大学町とのことでした。計画としては羽田からサンフランシスコへ飛び、そこからは貸切りのグレーハウンドバスで中部のイリノイまで行き、研修後はまた貸切りバスで東海岸のワシントンDCを経由して南はテキサス州のヒューストンでホームスティを体験し、その後はアリゾナを通りロサンゼルスへ行く行程がくまれていました。次回はいよいよ私の留学志望を決定づける人生の転機について書いてみます。
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初めての渡米
学園生全員が初めての渡米だったのではないかと思いますが、新天地に行くような期待感と、どんな国なのか、どんなところで学ぶのか、それは言葉では語りきれない程心がときめいていました。不安も無いわけではありませんが、そこは“みんなでわたれば怖くない”といったような心境で、大勢で渡米することで一種の心強さがあったのは間違いありません。日本初のジェット旅客機DC8に乗って、一路サンフランシスコへ向かって離陸しました。引率の先生はいずれも中学部の英語教師で、親しみのある“アンデルセン”の樋口先生と“熊さん”こと井熊先生です。アメリカへ到着するまで、飛行機の中では興奮気味で一睡もできないまま、気が付くと西海岸上空でした。
飛行機から初めて見たサンフランシスコ市街は日本の住宅街と異なって綺麗な碁盤の目になっていたのが、印象的でした。自分の保有する土地の大きさがそれぞれ違えば、どうして碁盤の目にはっきりと区切れるのかが不思議でしたが、区画がしっかり出来ていれば視界がひろいので交通往来の時は安全だし、火事のような時は交通の便が良いので、行政が行き届いているんだなと感じました。早くもサンフランシスコ国際空港着陸前に日米の違いに気づき始めましたが、これだけではアメリカの先進性が優位とはまだみていませんでした。
さて、空港に到着して空港内を歩き始めると、ビルが大きいこともさることながら歩いても歩いてもいつ空港ビルから出られるのか、とにかく延々と続いた事を覚えています。イリノイ州のマンモス市から迎えにきて下さったのはアメリカ人のジムさんと英語がぺらぺらの“ホウジョウさん”という日本の方でした。空港ビルを出るとまず星条旗が目にとまり、まぎれもなくアメリカに上陸してしまった事を実感したのは、私だけではなく、何人かの生徒も“アメリカにきちゃったんだ”と言って、緊張感からかため息をついていたことです。 次回は日本では当時信じられない、ジムさんが免許証をとりに行った時のエピソードとアメリカだから味わえた大陸横断の経験について書きたいと思います。
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サンフランシスコでの出来事
早々に空港からホテルまでバスで移動しましたが、ジムさんによるとイリノイ州が交付した自動車免許証の期限が切れていて、生徒全員はマンモス市まで予約したバスで行くものの、自分はレンタカーで現地に行くので免許証を取ってくるというのです。ジムさんはカリフォルニア州の免許を取得することになります。当然新しい免許の取得ですから教習所へ行き、すぐには免許を取得できないのではないかと言ったのですが、実地と筆記試験が通れば2-3時間で免許が取れると言って筆記試験用の教本を購入して読み、受験しに行きました。3時間もしないうちに確かに免許を持って帰ってきたのです。なぜこんな事が可能かと聞くと"なぜ可能じゃないの"と、あたりまえの返事でした。したがって、米国には車の教習所といったものはありません。これは私にとっては大きな経験で、欧米と日本が根本的なところで社会形成発想哲学が違うことを意味しています。追って、さまざまな経験に触れたいと思います。
翌日イリノイ州に向けて出発しましたが、私がナビゲーターとして、ジムさんのレンタカーで一緒に旅行することになり、いよいよ珍道中の始まりとなります。サンフランシスコから目的地のマンモスまで約3,250キロですが、この距離がどのぐらい遠いのか理解していませんでした。例えば単純に平均100キロのスピードで1日10時間走って目的地まで最速で3日かかります。サンフランシスコを出発したときは気温が約10度でしたが、インターステイツ80でカリフォルニアの州都サクラメントに約2時間で着くと、灼熱の太陽で気温はすでに33度を越えていました。気温の変化も想像以上でしたし、なによりも、2時間程度で145キロ近くを旅行したわけですから、いかに道路事情が発達していたか想像がつくでしょう。景色も森あり谷あり、そして砂漠ありで、とにかく"ばかでかい国"が私の第一印象でした。
カリフォルニアからネバダそして一路ユタ州を目指しましたが、ネバダの北東部ウェルズ町人口一千人強から次の町、ユタ州のウェンドーバ、同じく人口約一千人までの距離は98キロの道のりを出発したのが既に夜8:00でしたが、思わぬハプニングが待ち受けていました。
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いざ、イリノイ州マンモス市へ
ウェルズを出発して次の町までの道のりを約半分行ったところで、ラジエターに穴があいていたため水が抜け、車を止めざるをえませんでした。そこはシルバーゾーン峠の真ん中で標高は1,800 メートルあり、気温は氷点下近くまで下がっていました。表に出るとはく息は白く、寒さに震えました。夏場に差しかかっていたので厚着もなく、時間帯も悪く他に車がまったく走っていません。前進するにも引き返すのも約50キロあり、なんでハーツで借りた新車のラジエターに穴があいていたのか腹立たしく思え、同時に本当に誰かにめぐり合えるのだろうか、人家はないのか、このまま凍えてしまうのではないかと不安が脳裏をよぎり始めました。アメリカ大陸を甘く見てはいけないとこの時つくづく感じました。もしも冬場でエンジントラブルのため動けなければ、命を落としかねない状況が考えられたからです。危機管理の重要性がここで身にしみました。
ジムさんと私は、最後の手段としてエンジンをだめにしてでも水にかわるなんらかの液体をラジエターに入れる事を決め、風通しを良くするためにボンネットを上げ、真っ暗な周囲を見回しながら車をトロトロ進め赤いランプがつくと車を止めました。エンジンを止めていよいよ最後の手段を断行すると決めたとき、かすかでしたが清水の音がしたのです。
翌日、疲労こんぱいの状態でモーテルを出発しましたが、周囲は見渡す限り塩で、ユタ州のソルトレーク砂漠と聞き、地形のあまりの変化に驚かされたのと同時に、昨晩は車の故障後ついに一台も他の車に出会わなかったなーと思いつつ、昨日一日の回想に浸っていました。
アメリカは私の想像をはるかに越えた大陸で変化に富み、手つかずの自然にあふれるがゆえに常に気温差が激変するおそれがあり、万全を期した旅行計画をねることが必要です。大抵の町並みは歴史も特色もない一階建ての建物群で町並みが約150から250メートルも続くと、もう市外で自然に逆戻りします。食事は質も器も繊細さとバラエティーを欠きますが、どこへ行っても驚く程の量が必ず出て、例えばステーキなどは、少なくとも400グラムはあり、フライドポテトやポテトチップスが山ほど盛り付けられています。ハイウェーと道路標識は良く出来ていて大変分かりやすく、特に標識は子供でも道案内できるように造られていて、一日の移動可能距離は日本の2から2.5倍は可能でしょう。また、どこの町を通っても必ず星条旗が目にはいりました。そして色々な野生動物を事あるたびに車から見ることができました。今も記憶に新しいこの旅行の印象でした。
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マンモスにおける研修と生活
マンモスにおける英語研修は大変めりはりがあり、よく学び、よく遊びました。生活様式も同様でまじめにみっちり学び、楽しむときはバーべキューあり、ピクニックあり、小旅行あり、そして隣の州アイオワのダベンポート市に農作機械等の見学旅行もありました。そんなある日、反省会が開かれ、いかに研修をより良くするかを生徒全員と先生方で話し合いましたが、一部高校3年生の不心得者が起床時間を遅くしろとか、もっと自由時間を増やせと要求しました。この連中はラボで発音を何回もアメリカの先生に直されると、"舐めんな"といって先生を追いかけまわすほど、目的を取り違えて研修に参加していたのです。本当に事前オリエンテーションの徹底がどれだけ重要か思い知らされたのは、この会合のとき、私は3年生にたいして、"夜早く寝れば起床は別に早くないし自由時間も充分あると思います"というとその晩消灯後ジム先生が立ち去った後に事件が起こりかかりました。3年生数名にベッドを取り囲まれ、"おりて来い、てめえぶん殴ってやる"と脅されたのです。
雰囲気としては"やられる"と思ったほど緊迫した空気が流れましたが、同じ2年の同級生が"僕も同じ主張だったので彼を殴るなら、僕も殴ってください"というと、3年生のリーダー格が大声で"オメーは黙ってクソして寝てろ"というと、いっぺんに緊迫感がすっ飛び寝室全体に笑い声が響き渡りました。その騒動を聞きつけてジム先生が階段をかけ上がってきて何があったのか問いただしましたが、シーンとしてしらけたまま一件落着となって、命拾いをしました。いうまでもなくその同級生とは今でも付き合っています。
セントジョセフ当時、先輩は常に尊敬できる行動を取っていましたし、下級生の指導をして助けてくれても、先輩ずらしてましてや年下に理屈の通らない身勝手な理由で恫喝するなど、到底信じられないことだし、許せませんでした。玉川の中学部でもこのような程度の低い出来事はありません。同じように高等部のクラブ活動でも、厳しさはありましたが、こんなばかげたことは一度もありませんでした。
その後、英語の出来る数名はウィスコンシン州で実施されるアメリカ人高校生の合宿に参加できたので、私もそれに応募してマンモスをいったん去りました。
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ウィスコンシン州キャンプの思い出
ウィスコンシン州の北北東にある、ミシガン州の国境近くにノーザン・ハイランドという地域があり、ここには数え切れないほどの湖がいまでもあります。高校生約70名がキャンプ地のログハウスに寝泊りしながら、勉強を含むキャンプを団体で楽しむのです。私はここで、アメリカ十六代大統領エーブラハム・リンカーンが南北戦争における北軍戦没者にささげたゲティスバーグ演説を暗記しました。また、日中の日差しが一番暑いときには、グループに分かれて湖に置かれている約100メートル先の大きないかだまで団体で水泳リレー競技をおこないます。その応援のエキサイティングなことといえば、早く自分の順番がこないか、わくわくさせられましたし、競技が終わって勝てば大騒ぎ、負けても大騒ぎでした。表彰などは競技だけに限定されず、勉強面でも一つのことを達成すれば表彰され皆の注目のまとになり、さながらセントジョセフのときを思いおこさせられましたが、ここでは女子生徒がいましたので、雰囲気はまったく違いました。
食事時はいつもセルフサービスのブッフェタイプで、味はともかく主食は少なくとも3種類ありましたし、その他スパゲティー(これは日本のように主食ではありません)、サラダ、ドレッシング多数、野菜、デザート2-3種類、ソフトドリンク5種類以上と、とにかく種類もあれば、量も普通ではありませんでした。我々日本人はともすると目移りしてあれもこれも試してみたいということで、自分が食べられる以上にとってしまい、最後は大半を食べられず随分むだをして恥ずかしいことをしたと思っています。食事時誰かがひじをついて食べたり、口に食べ物が入っているのに話したりドリンクを飲んだり、はたまたナイフを舐めたりすると、歌の歌詞を変えて皆に大声で注意されました。
例えばこんな具合です。Tommy Johnson, strong and able. Get your elbow, off the table. This is not a horse's stable.
アメリカで特徴的だったのが、身近に野生動物が棲息していたことです。リスはいたるところで観察しましたし、ウィスコンシン州では鹿を何頭も目にしました。鹿などを不慮の事故に巻き込んだ場合、警察に報告義務が発生します。日本だったらどうしていいのか分からないような、自然相手にかかわる細かい取り決め事や法律が随分とありました。
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アメリカ市民の日常生活
アメリカではすでに動物が市民権を得ていて、大切に飼われていました。日本ではほんの10数年前、うろうろしていた犬などはある日突然姿を消してしまい、誰かの胃袋に入ったと言われていたぐらいだったから、生活レベルの差は歴然としていた。ウィスコンシンのキャンプでは、生徒皆が順番に馬の世話をしていました。
マンモス市にはキャンプ後帰りましたが、私の短期研修の成果として、リンカーンのゲティスバーグ演説を完全暗記しました。説得力のある演説を聞かせるために、有名な演説は図書館へ行くとその見本テープがあり、それを繰り返し聞き勉強することができました。アメリカ大統領の演説が皆上手なわけを後日、この一件で気がつきました。
マンモス市の最後のイベントとしてホームスティが実施されました。私はディキャルブ・コーン(とうもろこしの大手生産社の1社)の中央北部地区マネジャーの家にお世話になりました。家に案内されるとどの部屋も小さくて8畳(1畳=1.75平米)、居間は15畳近くあったと思います。今日本で4人住まい、90平米あれば比較的スペースのあるマンションですが、平屋で200平米近くあったでしょう。アメリカと比較することがいかに無知だったかを思い知らされたので、聞くのもためらったのが本音でした。
これだけではすみませんでした。キッチンに行くと流し台がありますが、その中央に生ゴミをためる穴があるのが今の標準でしょう。(日本ではこの時代まだこの穴もありませんでした)それがアメリカではミキサーになっていたのです。つまり、生ゴミはミキサーでこなごなにして、そのまま流してしまうのです。私はつい愚かな質問をしてしまい、"水道管が詰まりませんか"と聞くと"What is this?"と逆に聞かれ"Don't bother!"と答えて顔が引きつったことを良くおぼえています。料理をする電気コイルの太さ(当時まだ日本ではない)は日本の1.5倍で電気代が気にかかりましたが質問は慎みました。バスに行くとトイレが一緒で広々としており、日本の暗いイメージとはまったく違います。なんだかでるものも出ないかと初めは心配しましたが、これも不必要でした。洗濯物はバスの洗面場付近から地下にダクトがつながっていて、地下に設置してある洗濯機のすぐに落ちるようになっていました。
次回はさらにアメリカ市民生活から彼等がどんな視点で社会をとらえているのか、書いて見たいと思います。
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社会生活の市民視点の違い−日本と米国
ホームスティをしていたある日、朝一番に新聞をとりに表に出ました。するとエンジン音のまったくしない、小さなトラックが走ってきました。牛乳屋さんのようでしたが、早速ホストファミリーに聞いてみると、牛乳屋さんで間違いはありませんでしたが、乗っていた小さなトラックは電気自動車とのことでした。騒音防止と環境を汚染しないために使用していたのです。その日の午後もう一つ気付いたことがあり、いつも疑問に思っていたのでこれも聞いてみました。どうしてホストファミリーを含めて近所の人々が毎日のように芝生を刈っているのでしょう。これにいたっては、地域全体の資産価値を落とさないためや、新しく不動産を購入する人たちが安心できる居心地の良い地域と思えるような環境をいつも皆が維持するために、芝生を刈っているのだそうです。手入れをしないと環境が悪化して資産価値は下がり、その地域に望まないような人が入ってきて、将来的にはその地域は徐々にスラム化がすすむというのです。なるほど、これは貧富の差や人種がいろいろいるからだとすぐに理解しました。芝生が伸び、放置しておくと回り近所からクレームの電話が必ず何本もはいるともいっていました。某国でしたら"俺の土地と家だろうが。人からいちいちとやかく言われる筋合いはねぇ"と、まあこんな具合にすごまれるのではないでしょうか。この社会性・文化性は多いに学ぶべきではないかと思いました。
ある日曜日にミシシッピー川に水上スキーを楽しみに行くことになりました。いきなり朝から行くものだと思っていましたら、日曜日はまず教会です。教会は地域社会にとって大切な役割を果たしていて、信仰上の必要性だけではなく情報交換の場であり、同じ宗派の地域に住む人々の健康状態も分かるし、場合によってはお互いが協力し合うというのです。一人住まいのお年寄りが自宅で亡くなって、一ヶ月も分からなかったというようなことは防げるのではないでしょうか。日本社会でも応用できる良い実例だと思いました。海外に住む商社の方々は、地域社会になじまない日曜の早朝ゴルフは慎むべきでしょう。
車庫にはモーターボートが一台、車が二台。ボートを引っ張ってミシシッピー川で水上スキーと、お昼はバーベキューをして思う存分楽しみ、本当にゆったりとした時間を過ごしました。なにかアメリカ人は休暇を楽しむことも熟知していたような印象でした。
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一 大 決 心
マンモスでの研修も終わりに近づいた頃、めりはりのある生活に大変満足していた私は、このままマンモスに留まる強い決意を固め、父親に国際電話を入れる準備をしました。それにはしっかりとした自分の考えがなければ留学は認めてもらえません。
この決断に関して私には四つのことが頭の中ではっきりとしていました。まず高校一年の後半半年間と、2年当初のたるんだ生活にうんざりしていて、元に戻りたくない気持ちがはっきりしていたこと。めりはりのあるアメリカの生活が自分の希望していた生活で、日々良く学び・遊んで満たされていたこと。長男だったので父の仕事はいずれ継がねばならず、昨年のような無責任生活では百八十人近くいた従業員の生活に責任が取れるとはとても思えなかったこと。そして妹は当時玉川学園中学部に在学していたものの、小学校は横浜双葉に通っていたし、5才年下の弟は両親の協力のもと、受験して日吉の慶応中等部に合格。弟が自分の力と努力で勝ち取った結果は生涯どんな困難に出くわしても、しっかりと自力で問題解決 していけるだけの基盤と自信につながっただろうと感じ、自分だけが何も 達成できていないという、いわば劣等感に近い不安感だったのだと思いま す。
父と進路について話すにあたって、なにを一番のポイントとして留学を考慮してくれるか慎重に考えました。その結果、回りの人間的つながりや環 境のせいにして勉強が手につかないなどと言ったりすれば、留学に望む強 い意志と心がけがあれば、環境のせいにする事じたい納得しないだろう し、むしろ目が届かなくなれば、また自分の責任を回避するだろうと間違 いなく言われると考えた。もう一つ聞かれるかあるいは聞いてこな くてもこちらが調べておかなければならない事は、留学が本当に可能なの かという裏付けです。それは、アメリカの高校に転校できるとの確証を得 ることで、私は本プログラムデレクターの日系二世、塚本さんに相談に行 きました。塚本さんは地元の高校へ私と出向きその場で推薦することで、 入学の了解を取り付けてくれました。これで、父親に話せる準備を整 えましたが、さすがに胸がどきどきしました。気持ちを集中させ国際電話 を入れました。
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マンモス高校留学はおあずけ・帰路へ
自分が流されてしまって勉強に集中できないとの考え方には思った通り、父からはそれは自分の心がけしだいだとの疑問が突きつけられましたが、これには難なく答えられました。アメリカンスクールでは一度もなかったことですが、日本の学校では自分の意志や意見は極力ひかえ、皆に同調して行動を共にしないと仲間はずれになるか、最悪村八分になる場合もあり精神衛生上よくないことを伝えました。例えば仲間同士で行動をともにしないと付き合いが悪いとか、協調性がない事になります。なぜしょっちゅう群らなければいけないのか私にはわかりませんでした。全体的には父の理解 を得たものの、将来を左右する大切な決断なので、留学も考慮するので一 度帰りなさいというのが結論でした。私もしっかりと土台を固めて再度留 学すればいいだろうと思いました。場所はアメリカならどこでも良く、と にかく日々が充実していることが最大の望みだったのです。
いよいよアメリカ語学研修も終わり、研修修了式がマンモス大学キャンパ ス内の野外でとり行われました。ホストファミリーの家族も参加してくだ さり大変感動的な式だったように記憶しています。どこの国でも修了式を 大切にし、滞在中お世話くださった方々が参加くださる心遣いに感謝しま したし、自分たちの成果に対して、皆で祝福してくださる好意は私たち生 徒に忘れることの出来ない思い出を与えてくれました。物事の節目節目に 意義をしっかりとつけることの大切さを、中学の卒業式以来再度経験した ように思います。
約三ヶ月間いろいろな形でお世話をして下さったアメリカの人達との交流を胸に秘め、いよいよマンモス市を出発する日が訪れました。人の心は人種にかかわらず皆一緒で、別れの悲しさを涙で互いに分かち合い、腕を回しあって別れを惜しみました。 これから始まるアメリカの観光旅行が別れを慰めてくれて、大都市をいく つか訪れる事を楽しみにしました。まず東海岸のワシントンDCを見学して から南部深くルイジアナ州のニューオリンズに行き、テキサス州南東に位 置するヒューストンを経て、アリゾナ州の州都フィネックスからカリフォ ルニア州のロサンゼルスを目指します。この旅行では20数年後の日本で目 にしたものもあれば、アメリカで行ってはいけない場所があることが判明 し、留学前に各地を自分の目で確かめられた事に、大変意義があったと思 います。
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アメリカ横断旅行
研修中は中西部に滞在したのですが、ここから北東部のワシントンDC、南部のルイジアナ、テキサスを経て西部のロサンゼルスへ向かいます。アメリカの首都ワシントンDCではじめて貧富の差を意識しました。中西部ではほとんどが白人社会で農業が中心でしたが、首都DCは人種のるつぼでした。アメリカが移民の国であり、それぞれの教育レベルや人種的背景が貧富の差を生みだしているものの、同時にアメリカの経済を支えている事がはっきりと見て取れました。労働賃金の低い、いわゆる3kの仕事は有色人種特に黒人が多かったと鮮明に記憶しています。町並みの環境は清掃が十分にされておらず、薄汚れている印象でした。また人種間の張り詰めた感情が漂っていて、一種の緊張感がありました。
観光では国立中央首都公園へ出向き説明を受けて驚きました。高さ168メートルあるワシントン・モニュメントは36年の歳月をかけて1884年に完成され、国会議事堂はすでに5回も建てかえられており第1回目は1793年の完成でした。これだけでも技術的な先進性は充分理解しましたが、ジェファーソン・メモリアル、リンカーン・メモリアル、アーリントン・国立墓地を見学に行き、アメリカの経済力や社会制をある程度垣間見ました。特にメモリアルは、大変大きく立派な出来栄えで、まさにアメリカの力を象徴していたように思います。リンカーン・メモリアルを訪問したときゲティスバーグ演説が壁に彫ってあり、これに感動を覚えた私は演説が長方形の板に印刷された土産を買って帰りました。
この後徐々に南部に下り始めましたが、様子はいよいよ怪しくなり、店によっては有色人種立入禁止の張り紙や、防犯用に窓に鉄格子がはめられている家や店をいくつも目撃しました。また、場所によっては鉄格子のない家など皆無の所もありました。Deep south (深南部)といって奴隷がアフリカから運ばれ強制労働を強いられた地域で、当然肌で感じたのだと思います。奴隷制度は1619年から始まっており南軍が敗北する1865年まで、なんと246年間実施され廃止からわずか100年ですから異様な雰囲気があったのだと思います。次回は南部の人種的実状にもう少し触れてみましょう。又、テキサスでの出来事にも私の印象を述べてみたいと思います。
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南部の状況
ニューオリンズと言えば1895年、ジャズの発祥地として知られ、今は亡き有名なトランペット演奏者ルイ・アームストロング氏がジャズを世界中に広めました。この町の貧富の差は想像以上で、ジャズはアフロ・アメリカ人の魂が生み出した音楽であり、ジャズがどれだけ黒人を精神的に救ったのは町並みやそこで暮らす、抑圧されているようにみえた人々を見ていて想像がつきました。先進国でありながら平等権や公民権は実質上なく、スラム化した地域は、生きるためなら何でもありの悪に満ちた生活を、黒人一般に余儀なくされていたように見受けたのは私だけではなかったでしょう。夜間の外出は禁止されました。したがって夜間、この町がどのように変貌するのかを見届けることは出来ませんでした。
自由を剥奪することはその人種の社会性や文化、そして人間としての成長をも奪う事です。250年近くも奴隷制度がアメリカで公然と行われ、その後更に100年もの間平等や公民権が与えられず、黒人が劣等な人種と決め付ける心無き南部白人の言葉が信じられませんでしたが、中には黒人・白人との間の平等権は、北部より南部が必ず先行するという白人がその一方でいた事も事実でした。こんなに自由に自分の意見を言えるアメリカに益々興味をいだきましたが、南部に留学することには一抹の不安を抱いた事も否めませんでした。言葉についても南部なまりがあり、英語の発音の"ア"が南部では"エ"と発音していて決して誉められる耳ざわりではなかったからです。
アラバマ、ミシシッピーそしてルイジアナ深南部はどこも人種的緊張度と南部なまりがあり、テキサスも同じかと考えていましたが、ここはなんと一味違いました。まずヒューストンの観光で驚いた事は、ガイドさんが"テキサス州民はアメリカ合衆国から独立したい"と言っていたことです。印象に残った邸宅は造船王ヘンリー・カイザーの邸宅です。門構えといい、何メートルにもわたる壁といい敷地が大きすぎて邸宅が見えませんでした。ガイドによるとハワイにも邸宅があり、ペット犬の邸宅には冷房がついていて、当時ピンク色の邸宅がカイザー氏の持ち物とのことでした。なぜピンクかといえば、婦人の好みだったそうです。次回はもう少しテキサスについて書いてみましょう。
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ヒューストン・テキサスの全てが規格外
観光の途中、有名なライスホテルに昼食をとりに行きましたが、ここでも大変驚かされました。総勢38名ですから、これは周囲にかなり目立ちます。レストランで私が座ったすぐ隣にアメリカ人がいて、どこからきたのか質問されました。"日本からです"と答えると、どんな国かということになり、先生とも相談して一番いいのは日本の伝統的な歌を披露することでそれを相手に伝えると、聞きたいということになり、早速全員で得意の合唱です。実によくハモレタと思います。"さくら"が一番気に入っていたようでした。するとこのアメリカ人はウエイターを呼びつけ、私たちには全員にステーキをご馳走したいと提案して下さったのです。数分後ワラジのように分厚いサーロインステーキが目の前にきました。全員でこの方に感謝しましたが、聞いてみるとテキサスで油田を所有する富豪であることが判明しました。とにかくやる事が大胆です。先にガイドがテキサスは独立した国になりたいと言っていることも、まんざら嘘ではなさそうに思いました。又ここでは多くの男性がカウボーイハットをかぶり、バックルの大きいベルトを締め、ブーツを履いていました。西部劇を思い起こさせるいでたちと振る舞いで男性は闊歩していたように記憶しています。
この晩はヒューストン郊外にホームスティすることになり、私は湖畔に自宅のあるテキサン(テキサス人)の家にお世話になりました。テキサスも南部なまりはありましたが、民力は他の深南部州の比ではなかったように思います。さて、湖畔の邸宅にやや暗くなって到着すると、セキュリティが作動して自動車置き場は電気で照らされ誰が来たのかすぐに分かるようになっていました。当時セキュリティとはなにか知らず教えていただいたわけです。家に入ると年輪を上手に生かした別荘のような家で、本当のゆとりと落ち着きを感じました。地下へ案内されると娯楽室で軽く20畳はあったでしょう。エイトボールができるビリヤードテーブルが据え付けてありました。隣の部屋に行くと、ウインドーケースがあり狩用のライフルが10丁はあったでしょう。あと半階段おりると、湖が引いてきてあり桟橋が2本モーターボートも2艇並べてありました。豊かさは日本と比べ物になりませんでした。
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アメリカ滞在の総括
テキサスのヒューストンからインターステイト10を利用して、最終目的地ロサンゼルスを目指しました。この地は元々砂漠で、そこを人が住めるように人工的に新境地として切り開いたそうです。そんな背景があったため、水が不足していて当時からオフィスの水はミネラルウオーターが20リッターは入り位のガラスのタンクで業者が届けていました。ミネラルウオーターを売るという発想は、当時の日本では水がおいしかったこともあり、お金になるとは思ってもみませんでしたが、今日ではごく普通のことでしょう。
ロスではナッツベリーファームやディズニーランドを見学しましたが、物の豊かさや発想の豊かさは、目をみはるものばかりでした。例えばテーマパークのようなものは、近年日本でも見られますが、1965年当時からアメリカにはありました。さらに、西海岸で目にした唯一の日本製品はブリキのおもちゃ程度で、家電製品や自動車等は皆無で、状況としては今の安い中国製品が日本に輸入されているのに似ています。中部から東部に及んでは、日本製品をまったく目にしませんでした。東部へ行けば行くほど日本など知らないアメリカ人のほうが多かったように思います。豊かな国ゆえに自分たちが住んでいる地域社会にかかわる事が多く、新聞もローカル版ばかりで国際的な記事はほとんど目にしませんでした。新聞の一面に20年以上長髪を続けた男性が髪を切ったという記事には驚かされたものです。
アメリカの国旗は国中至るところで羽ばたいていて、これは明らかに多国籍国家を国旗のもとに一国としてまとめる重要な役割を果たしていたと思います。国歌が流れるとアメリカ人は直立不動になり、誰もが胸を張りまた皆右手を心臓にあてて国旗に敬意を表していることが彼らの態度ではっきりと見てとれました。
アメリカの公務員が公僕であることはかなりはっきりしていたように思います。旅行中2度パトカーにつかまりました。一度目はある町に入ったときスピードオーバーで止められましたが、即罰金ではなく理由が正当であれば許してくれるのです。このときの理由ははじめてきた町でスピード標識を見落としたというもので、注意だけですみました。二度目は大きな町で一方通行に間違って逆方向からはいると目の前にパトカーがいました。すぐおりてきた警察官は理由を聞き、状況を理解するとホテルまでサイレンをならしながら誘導してくれました。規則は規則という日本との違いにカルチャーショックを受けたものです。
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アメリカ滞在の総括その2
ロスアンゼルスで、さらに驚いたことがいくつかありました。高級住宅街へ行くと電信柱が見当たらず、従って電線がどこにもないのです。聞いてみると、景観が悪くなるものは総てが地下に潜っているそうです。これは今こそ日本にもありますが、このような都市計画はこの時代の日本では存在しなかったように思います。また暑い土地柄と金持ちも多かったからだと思いますが、いたるところでプール付の住宅を目にしました。
ロスの高速道路は片側5車線もあり、しかも朝のラッシュ時は高速道路の入路に、車が安全且つ混雑をきたさないように、センサーのついた信号機が設置されていて、一台づつハイウエーに入れるように配慮されていました。このセンサーは通常の信号機にも設置され、交通量の多い道路の通行が優先的になっていて、交通量のすくない方は車が信号機まできていったん停止すると数秒後信号が変わる仕組みになっていました。さらにセンサーの利用は仕事場にも及んでいました。社員に能率よく仕事をしてもらうために、朝一番は電気が全開でこうこうと明るくされています。日中から午後3時頃まで普通の明るさになり、3時以降はまた徐々に明るくなるようにセットされていたようです。スーパーマーケットで聞いた事ですが、一般的な事務所でも同じだと言っていました。
ロスのような観光地ではさすが資本主義の国で消費者中心とあって、おみやげ物や食べ物のバラエティーは想像をはるかにこえるほど、種類や形そして色彩にも富んでいました。ここまでアメリカを見てくると、本当にこの国と戦争をしたことが信じられませんでした。車の量も中途半端ではなく、朝夕のラッシュ時はこの5車線をもってしても、渋滞はおこりました。この時期のアメリカは国民に活力も自信もかなりあったと思います。
見るもの感じるもの総てが新鮮に映りました。こんなに変化に富んで、興味と好奇心をそそられた経験はそれまでの人生ではありませんでした。政府が指導力を発揮して一つの戦略のもとに国を導き、国民が目的を持って建国に望み社会を形成すると、希望とか生きる楽しさを教えてくれることに気づかされました。そうなるとどう考えても、もう留学しかありませんでした。またこの旅行で下見をしておく事の大切さもつくづく感じさせられました。円360=1ドルの固定相場制の時代に海外を見させてくれた両親にも深く感謝しました。
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何故か英国行きに変わった海外留学
日本へ帰国後、とにかく了解を父から取り付けると早速留学の準備と情報収集を始めた。高校については中学部の岡田先生のお話を聞きに行きました。岡ちゃんはアメリカの高校への進学については頭を縦に振ってはくれませんでした。その理由はアメリカでは大学生は厳しい勉強が強いられるけれど、大半の高校では学校が終わると教科書はロッカーにいれて、自宅では勉強をしないというものでした。従ってまだ人間的に大人になっていない時期に自由奔放に生活すると、どこの国の人間かわからなくなるといわれたのです。留学をどうしてもしたいならば玉川学園が姉妹関係にある英国の全寮制高校を紹介するが、嵐が丘のようなところで寂しく、本当にやってこられるかと問われましたが、勢いあまって頭の中では"えい同じ英語圏だ"との考えが脳裏をよぎり"大丈夫です"と反射的に答えてしまいました。この一瞬の答えで英国行きが決まり、何か本当に運命的な大きな決断が下されたことを意識せざるを得ませんでした。
この報告を受けて父は自分が横浜で所属していたライオンズクラブを通じてロンドンのライオンズクラブに連絡をとってくれました私は英国領事館訪問やらパスポートの準備をはじめました。渡英は高校3年時の春学期以降、8月の中旬と定め、同級生との卒業を断念しました。この中退は結果論ですがとても大事だったと思います。けじめをつけずに渡英ですからはじめはいけないかなとも思いましたが、中退したことで逆に留学を絶対に失敗できないという強い認識もこの時はっきりと芽生えました。海外にでかけるには大学進学をも認識した上で考えるようになっていました。大学についてはこの時点でやはりアメリカを考えていて、国際社会の中にあってリーダーシップをとり続ける強い国の印象があったからでした。大学進学は中学部特英科で教えてくださった小平幸子先生のところへ行き、彼女がもと住んでいたワシントン州をすすめられました。四季が日本と同じようにはっきりしていることの重要性もこのとき教わりました。留学準備期間中、本当に多くの方々から指導やらアドバイスをいただき、一つずつ不安が消えていったように思います。このときの経験は留学後、自分が行動しなければなにごとも始まらないことを教えてくれました。
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英国高校留学への旅立ち
1966年6月ほぼ留学準備も完了し外貨の交換に父と日銀にゆくと、当時英国の1ポンドは1,008円もしていて、現在の5倍強もの円がなければ1ポンドが購入できませんでした。今は1ポンド200円以下ですから、どれだけ親の負担が大変だったかわかります。両親はある時親族を家に招き、家庭料理で大々的に私のために激励パーティを開いてくれました。皆が励ましてくれ色紙にそれぞれが想いを書いてくれましたが、母方の叔父が書 いてくれた内容が妙に気持ちを楽にしてくれました。その内容は、“お父 さんの期待を双肩に感じるな!自分の思い通りに勉学に励んでください” というものでした。これは、3年後の1969年6月英国の全寮制高校を卒業し たとき、初めて完全にその意味を理解しました。また、この激励パーティが与 えてくれた勇気は留学中、すでにその年の11月でしたが友達が一人もでき ず、木枯らしが吹き木々の葉を舞わせ、景色が見る見るうちに殺風景にな って環境が日々ものものしく寂しくなっていくと、日本に帰りたいという 気持ちが募りましたがそんな時、石にしがみついてでも帰れないとの意識 が強く働いたことを今でもよく覚えています。大勢の親族に心から励ま されながら、留学後わずか3ヶ月では到底帰れませんでしたし、帰る時は ノイローゼになる寸前までしがみつくぞと自分に言い聞かせました。
1966年8月初旬の夏休みに湘南茅ケ崎海岸で送別会を開いてくれたクラス メートや横浜から一緒に玉川学園に毎日通っていた学友が総勢35名、羽田 に見送りにきてくれました。そのとき皆で歌ってくれた“学生歌”は、その 後30代に正規留学援助業務を取り扱う会社をはじめた頃、留学生が日本で 語学合宿を富士5湖で実施したとき毎日朝礼時に歌ってもらいました。
さて羽田では感謝の気持ちが一杯で涙、涙でしたが、こんなとき意外な方 に羽田でばったり出くわしました。アメリカに留学していた学園長小原國 芳先生の孫息子、義明さんも新学期にあわせて飛び立つため空港にきてい たのです。これは勇気百倍で、彼も異国の地で自分の道を切り開いている と思うと、いつもそのことを思い出せば負けないだろうと心に刻みまし た。いよいよ当時最先端の飛行機、マクドネルダグラス社のDC8に乗り込みアラス カを経由しヒースロー空港が最終目的地の北回りで、英国に飛び立ち ました。
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留学を前に話しておきたいこと
私はアメリカ滞在の総括その2で言いたかったことがもう一つあります。それは近年皆さんがコンピュータを検索して世界の情報を入手し、自分のメールを発信し、携帯電話で好きなときにいつでも瞬時に誰とでも連絡がとれる自由があることをどれだけ恵まれているのか本当におわかりでしょうか。
最近出会い系サイトで知り合い自殺する若者のニュースを見るにつけ大変心が痛みます。なぜこんなことになるのでしょうか。アメリカを見てきて、あれほど興味と好奇心をそそられたことはなかったと書きました。日本と対比できたこともありますが、日本に生まれてアメリカには相対的に生活レベルでは及ばないものの日本がどれだけ恵まれた国か良くわかっていましたし、ましてや現在皆さんはなにも物質的に不自由しているわけではありません。精神的に不足していることは多々ありますが、でもそんなに不幸なのでしょうか。世界の現実に対してこんなに無知でいいのでしょうか。しかも自分の命まで自らが絶つ。到底理解できませんし、わがまま過ぎるのではないかと思います。
世界でどれだけ不合理がまかり通っているか皆さんご存知ですか。世界の5人に1人は1日1ドル未満で暮らしていて、7人に1人がこの地球上で餓えています。この時代になっても世界には奴隷が2,700万人もいます。インドでは4,400万人もの児童が学校に行かせてもらえず働かされています。世界人口の70%以上が電話を使用したことが無い事実をご存知ですか。これでも皆さんは本当に不幸なのでしょうか。
このような不合理を書き出せばきりがありません。まず物質的に恵まれた環境にいることに感謝の第一歩を持つことから始めましょう。そして社会に対して、はたまた世界に対して興味をいだいて下さい。そこには無限の課題があり、生きる喜びと自分が“生”を与えられ、誇りをもって生きてゆくためのヒントがぎっしり詰まっています。苦しいことは、自分が成長してゆくことの一過程であり、決して不幸なことではありません。むしろ苦しいことに気づかさせてくれていることに、感謝するべきです。なぜならそれは自分の成長が期待できるからです。ちょっと哲学じみてきましたのでこのへんでやめたいと思います。来週はいよいよ英国です!毎日が驚きばかりです。ご期待して下さい。
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いざロンドンへ
私はこのとき初志貫徹という気持ちで渡英しました。従って英国の全寮制高校をしっかりと卒業できるまでは、日本に帰国しないことを固く心に決め飛行機に乗り込みました。途中アラスカのアンカレッジを経由して空港で休息をとったりしていたので、同様のお医者さんとも親しく話す機会があり率直にあの浦島太郎になりはしまいかとアドバイスを求めたのです。するとどうでしょう、“うぬぼれるな、えらそうに3年程度でそんなに英語が一流になれるわけが無い”、とわけのわからない戒めを受け、これから大変な生活なのに気分をこれ以上悪くしたくないと思い日本人との話はこの後断念しました。うぬぼれ気分で話したわけではなく、17歳の子供が率直に日本のことが判らなくなった場合の時を心配して意見を求めたつもりが、この方もが相変わらずの体たらくだったことに失望しました。
さて、当時は日本から北周りで地球のほぼ裏側にある英国には約18時間かかりました。ヒースロー空港に到着して入国管理と税関を通過して、まずお国柄がかなり違うことに気づきました。入国にかかわる質問はいくつもありましたが、穏やかな物腰で威圧感がなく一連の質問が終わると、入国管理のオフィサーは“Good luck with your studies”と励ましてくれ、税関では”Welcome to England”といって歓迎してくれたのです。そして両管理官とも制服がなかったのも威圧感を感じなかった理由だったのだと思います。空港全体で制服は警察官だけで、警棒のみで拳銃は持ち合わせていませんでした。空港を出るとライオンズクラブ・ロンドンの会長が出迎えてくれました。ヒースロー空港から今晩の宿泊地、ロンドンの中心街にあったホテル”The Waldorf”に向かいました。ロンドンの景観は石造りの家や建物ばかりで、想像以上に威風堂々としていて、伝統を強く印象付けられました。ホテルについて更に驚いたことはホテルの外装内装に重厚感があり、あらゆるところで、伝統格式が重んじられていて、例えば濃い赤い靴が沈みそうなじゅうたん、白に近い大理石とおもわれる建物の中にうまく木造がフロントデスクや二回にあがる階段の手すりにちりばめられていて、そしてステインドグラスや立派なシャンデリアが照明の演出をいかんなく発揮していました。翌日の朝からのロンドン見物が決まり、期待に胸がわくわくし興奮気味だったことを覚えています。  
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英国の経済事情
渡英した1966年の夏、日本の経済は依然として二桁成長をしていましたが、英国では大変な不況で失業者があふれていました。五つの海を支配していたころの大英帝国の面影はまったくなく、主産業であった造船業はストに明け暮れし、世界の先進国をリードしていた二次大戦前の大国の姿はどこかに消えてしまい、ロンドン子を見ていると彼等の誇りすら感じられませんでした。ライオンズクラブの会長がいろいろと説明をしてくださり、英国がかなり深刻な経済状況下にあったことが手に取るように理解できたが、それでも日本よりはるかに進んだ国であることは、目に入る情報でよくわかりました。日本では近年ようやく公共の乗り物の外壁に大きな広告が描かれるようになりましたが、当時の英国ではすでにあたりまえでした。さらに公共の乗り物は総てがオートマチックで日本のようにマニュアル車はありません。労働条件の改善の一環だったことを聞かされ、日本ではそこまで労働者の権利があることを聞いたことがなかったので、いささか驚かされました。
反面こんなことをしていていいのだろうかと思わせる情景にも出くわしました。5-6人の労働者が道路工事をしているのですが、何の工事かわからず聞いてみると午前中に穴を掘り午後に埋めるとのことで、本当に耳を疑いました。穴には4人入っており2人が外から監視し、昼食時以外に10時と15時はかならずお茶の時間で、彼らは失業者だと説明を受けました。政府もただでは補助金を支給せず労働の対価として給料を支払うと聞きましたが、虚しくは無いのか聞いてみるとただ、”I don’t know!”と言っていました。国が変わればなんとやらで、見方を変えれば、一つの方法なのかもしれません。また当時は労働党の支配下でしたので、それも影響していたかもしれません。
他方こちらの観光で一番印象を受けたのがやはり英国博物館でした。世界中のありとあらゆる所から各国の文化・文明品が所狭しと展示されていて、国力の誇示というより他国をねじ伏せて強奪してきたと言わんばかりの印象を強くうけました。世界中で出版された本の展示物は荘厳で、一生忘れる事が出来ないでしょう。
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戸惑った多彩な文化的違い
ロンドンを案内していただいたのは初日一日でしたが、ライオンズクラブの会長はインド人で、昼食を自宅でご馳走してくれたのです。ドライカレーが主食でマンゴーのジャムのようなものが、日本での福神漬けの変わりに盛り付けられていました。私にはスプーンが用意してありましたが、会長夫婦は右手でじかに食事を手に取り食べ始めたのです。私も失礼があってはいけないと思いスプーンはいりませんと申し上げ、左利きなので左手でいただこうとすると、食事は必ず右手で食べることとおっしゃった。インドでは左手はトイレの用足しの時に使うので不潔なため、食事は従って右手でいただくのだそうです。
二日目早速独自でロンドン見物に出かけました。まず地下鉄でハイドパーク(有名な公園)へ行きましたが、地下に下りるためのエスカレーターの構造が木造なのでいつ出来たのか知りたいと思いました。また、エスカレーターは延々と約40メートルは地下に続いていて、それまでそんなに長いのは見たことも乗ったこともありません。ハイドパーク駅に着き表に出てバス停のそばを通ると若者がバス乗車客の列に割り込もうとしているではありませんか。すると待合客全員が抗議をして、その中の大人二人がその若者をつまみ出したのです。若者は罵声を浴びせながら走り去りました。日本では注意すらできない大人が、こちらでは全員が抗議する勇気を持ち合わせていることに、民主主義が定着しているんだなーと感心させられたものです。
ハイドパーク内を歩き始めるとさらに今までに見たことのない光景を目にしました。それは、英国人と思われる中年の男性が木箱の上に立ち上がりなにやら演説しているのです。誰もはじめ聞く者もいませんでしたが、そのうち一人二人そして数名の人だかりが出来、熱心に聞き始めるではないですか。そして一定の時間が過ぎると今度は、見物客との派手な議論が始まったのです。当時はまだ英国英語に精通していなかったので、何の議論か分からずどうしても知りたいと思い、散歩をしていた英国の老紳士に聞いてみました。彼らは皆山高帽をかぶりモーニングを着て黒いステッキを持っていました。紳士によると今の政治について演説者が自分の意見を述べ、それに対して反論や議論をしているとの事でした。成熟している国というのが率直な気持ちでした。
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初めて知った自己責任
英国紳士に、地下鉄がいつ頃できたのか、また40メートル近くのエスカレーターに驚いたことを伝えると、なんと地下鉄の歴史は1870年に第一号が完成され、最も長い地下鉄のエスカレーターは220フィート、約67メートルあると聞かされニ度びっくりさせられました。日本が明治初期の1869年、西洋文明を取り入れて近代化をはかった、いわゆる文明開化の年にはすでに地下鉄工事が始まっていたことになります。本当にこういった国を相手に戦争をした事がにわかに信じられませんでしたが、無知と情報の欠如がなせる罪悪なのか、真剣に考えさせられました。ロンドン見物中農協の老人団体客数十名を見かけましたが、つくづくなぜ若い人達を優先的に世界見物させないのか本当に残念だというあの時の気持ちは今でも思い出します。
さて、ウェストミンスター寺院に足を運んだとき、思わぬ災難に出くわしました。イギリス人カメラマンが私の写真を撮って自宅へ送ってくれるというのです。親も喜ぶだろうと思い、お願いして住所をカメラマンの名簿帳に書き込み、いくらかかるか聞くと、1ポンドと言われ財布からお金を出して支払うと、それは撮影代だけだというのです。現像代、焼増し、送付代等等で値段をつり上げ8ポンドまであげられて、“もうたくさんだ”というとそれ以上の要求はありませんでした。日本円で言えば8,064円で高いと感じましたが、でもこれほどの誇り高き歴史をもつ国の国民が人をごまかすことはないだろうと思いつつ、これは一つ警察に聞こうと決めスコットランドヤード(ロンドンの警察署)へ出向いたのです。事情を聞いた私服刑事2人と車でウェストミンスター寺院に戻ると、カメラマンはまだそこにいて刑事2人で話に行きました。ややしばらくして刑事が帰ってきましたが、カメラマンは許可証をもっていて、私の名前がカメラマンの名簿帳にあったものの、価格は許可証がある限り自由に値をつけられるとのことでした。刑事は“何も出来ない”と言い、万一写真が親元に届かないときは次回ロンドンに帰ったときスコットランドヤードへ行けば、刑事さんが変わりに写真を撮って送ってくださるといってくれました。悔しい思いをしましたが、この時からyesとnoをはっきりさせること、財布のなかみは絶対に他人に見せないこと、何か買う前にいくら出せばいくらお釣が戻るか計算してから買うことを肝に命じました。
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英国貨幣や数字の不思議
前回詐欺にあったことを書きましたが、英国の通貨は当時12進法で詐欺にあったからこそ、複雑な貨幣換算方にだまされないようにと心がけました。英国の通貨は1ポンド1008円、その下がシリングそしてそれ以下がペンスでした。ポンドの上はギニ−です。例えば1ポンドは20シリング、そして1シリングは12ペンスとなります。1ポンドをペンスで総て支払うと12ペンスx 20シリングで240ペンスとなります。従ってシリングは1ポンドの20分の1、又ペンスは1ポンドの240分の1となります。ギニ−はと言うとこれは1ポンド1シリングを意味します。12進法が使われたのは1年が12ヶ月だったからのようです。
つい先日、石原都知事がフランスの数え方は合理性がなく国際性を失う勘定の仕方であるとした。その例題として90をどのように数えるかと聞くと会場の学生から4x20+10との回答がありました。私も多少の知識があり、フランスの数え方は基本的に20までいくと20+1、となります。確かに合理性からの観点からすると問題があるかもしれませんが、でもそれだから国際性を失うというものでもないでしょう。合理性だけ追求すると円周率は3になってしまうのと同じだからです。今はまた3.14に戻したようですが、本来歴史で創り上げられてきたいかなるシステムも見直すことが時代の要請に応じて必要なことが多々あるかと思いますが、発見者や発明者がなにを根拠に一つの結論に達したのか知らなければ石原都知事の言っている事は、上辺の知識だけでは非常に危険だと思います。
本来のテーマとややかけ離れてしまいますが、同じような発言を元総理の宮沢・中曽根さんが記者会見で行っていたことを思い出します。それは両者が総理の時代、日本の就学率の高さと大学進学率の高さを記者会見で誇り、それに比べて英国の大学進学率の低さを客観的な数字を上げ、こき落ろしたのです。両前総理は英国が日本のように全国民総大学卒を考えていないと想定したことがあるでしょうか。国家の安全と国民の利益を国際関係上、本当に守れるのは真のエリートにしか出来ないことを英国政府がすでに知っていたとしたら、こんな発言をしたでしょうか。その結果、今の国際関係の悪化をマスコミを通して見ても皆さんもお分かりだと思います。
来週はまた本題にもどし、いよいよアボッツホルム学校にいざ気合を込めて乗り込みます。
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いざアボッツホルムへ
1966年8月25日木曜日、いよいよアボッツホルムに向けロンドンのパディントン駅を電車で出発しました。目的地はダービー駅でしたが、緊張感からでしょう間違えてラグビー駅へ行ってしまい途中心配しましたがなんとか正午過ぎにダービー到着、迎えにきて下さったボズエル寮長先生に会うことが出来ました。2台の車がぎりぎり往来できるような狭い国道をかなりのスピードで走り、40分はかかったでしょう無事学校にたどりつきました。なだらかな丘がいくつもあり、言われていたようにまさに嵐が丘のような景色でしたが、まだまだ経験の乏しい私にしてみると、日本にはない平和な眺めだなぁと思えるのが精一杯でした。私がこれから住む寮、ホワイトハウスに荷物をおろすと、早速、もよりのロースター村へ行きどこでなにを購入できるか案内していただきました。人口は約200人雑貨店と食料品店、パブ(一杯飲み屋)程度が商いをしているだけで、銀行や郵便事業は雑貨店が代行していて、ある程度大きな隣町、ユトクセターから関係職員が前日の帳簿処理に毎日おとずれていたようです。村では兄妹から生まれた子供がどんな容姿になるか寮長の先生が教えてくれて、 めんくらった事をよく覚えています。
ユトクセターにも連れて行ってもらい、車で20分程かかり、次回からはこちらの町へ来て、バスを利用してロースターへ来るようにと指示を受けました。農業が中心のようでしたが、一応ホテルやレストランなどもあり、ショッピングもできました。ユトクセターまでの道のりは、まさに一直線だったのでその理由を聞いてみると、語尾が“クセター”の名前がつく町はローマ人が作った町で道は必ず一直線と聞かされ、今日2度目の驚きでしたが、これからまだまだ驚くことになります。
この後寮に帰り、同じ寮生になる英国人の下級生に学園内を案内してもらいました。学校は寮から徒歩約15分、舗装されてはいましたが国道よりさらに狭い、2台の車が往来できそうにもない曲がりくねった農道を進むのですが、途中校長の家が一軒あるのみで、あとは農道の両サイドにさくがはってあり、家畜、特に牛が道にでないようになっていました。また、木々がうっそうと生え、道を覆っていました。赤レンガ造りのお化け屋敷のような学校の前に来て始めて景色が開け、右を見ると延々と平野といくつもの丘が目に入りました。次回は厳しい校則について書いてみたいと思います。
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日本の高校時代より厳しい校則
アボッツホルムに到着した翌日、下級生が学校案内と校則について話してく れました。一般的な校則についてはすでに読んでいましたので知識がありましたが、細かい部分はその時の説明まで知りませんでした。まず、高校2,3年生は寮や学校の正門を利用できましたが、それ以下の下級生はいわば勝手口のような横道とか横の出入口以外は使用禁止でした。階段の上り下りもまったく同じです。朝食は午前7時30分までに食堂に入る必要がありチェックされます。8時に食事が終わると先生からその日のメッセージがあり、その後、高校2,3年生はキュービカルという5人部屋が仕切られている勉強スペースに戻りそこで靴を磨きます。それ以外の生徒には10人部屋が与えられ、特にキュービカルはなく、勉強や宿題は放課後、クラスか図書館でかたづけます。8時30分には教会に全員集合しますが、下級生は朝食後自分の大部屋に戻り急いで靴磨きを終え、上級生の部屋に行って部屋の清掃をしなければなりません。"ファッグ"といって上級生の雑用も放課後命令されれば実施しなければなりません。上級生にはこの他にも特典がありました。5人部屋には全員が共有できるスペースがあり、そこには食事時以外にトーストが食べられるようにトースターと毎週配給のバターがいただけました。食パンは制限がなく、食堂のおばさんのところに行けば上級生のみ、いただけました。私は育ち盛りの下級生に部屋の掃除が終わるとい つもトーストを焼いてバターをつけておき、教会に行く前に食べさせました。これには訳があって、先々ふれますが想像を絶するひもじい食事の毎日だったからです。靴磨きは教会に入る前にチェックされました。ありとあらゆる校則を2度破りますと、その程度はありますが、1学期2度週末に帰宅が許されている権利を剥奪され、なお且つ重労働で学校の美化に役立つ仕事が義務付けられるのです。ある週末、親が遠方から迎えに来ても帰宅は例外なく許可しませんでした。生徒は一人一人の責任能力によってネクタイで色分けしていました。責任能力を認めない生徒は緑(グリーンタイ)約170名、一定の責任能力を認めると赤(レッド)約50名、大人として認められると青(プリーフェクト)約10名そして最上級は約5名で学校に名誉や、行為・行動が特に立派だった者は青に星がはいりました。
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学 校 生 活
私の行った全寮制の男子校は、1年生から始まり下級6年、上級6年生の全7年制でした。5年生は16歳ですが、英国では日本の高校3年の勉強をこの時点で終えます。“O”レベル(普通レベル)という統一試験を6教科から10教科受け、6年生の2年間はさらに“A”レベル(上級レベル)の教科を3教科から4教科受講します。従って16歳の年齢で文系か理科系へ行くのか決断しなければなりません。私は下級6年に入り1年間で普通レベルを受験する準備を整え、2年と3年目は上級レベルの受験準備をしました。3時には放課後となってラグビーが体力別で行われ私も経験はなかったものの、2ヶ月で一軍の左ウイング(ボールを持って走る最終ランナー)を任せられました。
ユニークだと思ったのが物造りを全員参加で実施させた事と、自由研究で時代を限定して芸術を勉強させたことです。物造りについては、カヌーやカヤックを手造りする者もいれば、ナイフとチーズボードを造る生徒もいました。芸術面の自由研究では、特にルネッサンスに限定され、その時代やその近辺時の彫刻家や、画家、建築家などの研究を行い、一人一人が一定の期間研究を積み重ね、クラス内で発表する事でした。私は2年間で勉強した芸術家は画家のラファエロ、カルバッチオとルーベンスでしてが、この研究はただ単に芸術に精通する目的に限らず、文化とその時代の芸術を通して知り得た知識は、芸術を見るしっかりとした基本が身に付く事だったと思います。時代の歴史的背景とその中から生まれる芸術が、国とその文化に誇りを抱かせるのだと私は信じています。
学校では、生徒に研究させるだけではなく、目の前で芸術とは何かをしっかりと体験させました。1学期10シリング支払うと、後は学校側の負担でピアニストやカルテットを学校の教会に招き、生の演奏を聞くことができたのです。ある時ピアニストのルーベンスタインがロンドンのアルバートホールで演奏することになると、学校のおんぼろバスに皆同乗して、夕食はロンドンの街頭でフィッシュアンドチップス(酢をかけた魚のフライトとポテトフライ)をほお張って一流の演奏を聞きに行きました。この経験は一生忘れる事はないでしょう。
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慣れるまで苦労した学校生活
9月初旬から新学期が始まりましたが、2ヶ月経っても学校生活に慣れることはできませんでした。それにはいくつもの理由がありました。日常の生活面や勉強面でどうプライオリティをつけて行動していいのか分からなかったのが主な原因で、又長期留学のプレッシャーがいろいろな面で表面化していたのです。まず日常生活では、受身だったせいか友達ができませんでした。日本人は私一人でしたので興味を持ってくれると思い込んでいて、結果誰も親身になって話しかけてくれませんでした。日本にいた頃、気がつかなかったのですが困った時に意見交換できる友達や、学校でいやなことがあれば、言葉にまとめて自分の悩みを、はけ口のごとく母親に愚痴をぶつけていたことがいかにストレスの発散に役立っていたか、アボッツホルムにきてはじめて理解できました。私が置かれている環境や立場がわからなかったからだと思いますが、日本にいた友達の意見もあまり参考にならず、さらに一定の時間が流れると手紙もこなくなりました。今のようにインターネットのある時代ではなかったので手紙のやり取りをしても、返事がくるまでほぼ20日間かかりました。この時期気持ちの支えになってくれたのは母親でした。用があろうがあるまいが、定期的に週一回手紙がきて家・近所・社会の出来事・学友等の近況を報告してくれました。本当に感謝しましたが、この逆境が自らの判断を信頼して自信を持って決定し行動を起こせということを教えてくれましたし、自分の親からこれまで教わってきた生活のあらゆる教訓や教育が今自分が自立してゆく上においてまさに実践する場であることに気づかされました。でも現状の生活改善は自分の行動にかかっていると気づいたのは帰ろうかと真剣に考えた11月下旬のことでした。
勉強面で言えば、イギリス英語の講義が理解できず、毎晩寮長の先生に許可を得て学校の勉強部屋に10:30分まで残り、復習時間をとらせていただきました。帰りの農道には外灯がなく両サイドのさくに何回も突っ込み、目が闇にまったくなれず“暗黒”ってこのことなのだとたびたび気落ちさせられました。天候が慢性的に悪いのも気持ちが晴れない要因だったし、11月に入り自然の景色が殺風景に変化した事や、気晴らししたくても近所のロースター村は人口200人で、楽しみがなにもないのも留学をあきらめかけた原因だったと思います。
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巻き返しを図った学校生活
以前一度触れましたが、留学前に親族が一堂に会し留学祝いのパーティを開いてくれ たことが本当に帰国を留まらせてくれました。恥ずかしくて帰れないという気持ちが 本音でしたが、それではどうすれば現状を打開できるのか自問自答したのです。まず 勝手にホームシックになって弱音を吐いている自分がいることに気づきました。11月 は私の誕生月で、18歳でありながら毎回手紙の返事を待つ20日間、何も出来ないでい る自分に恥ずかしさや、もどかしさを覚えましたし、特に留学を賛成してくれた両親 や妹・弟に申し訳なく感じました。余談ですが、英国では18歳は立派な大人とみなさ れ法律上、飲酒が許されるくらいです。
日常生活で何を変えたかといえば、気がたるむ週末は時にホームシックになることが あるので、ピアノを習い始め暇がないよう工夫しました。聖歌隊にも参加して英国人 と共に、学年末の6月上旬までにビバルディ−の“グロリヤ”が歌えるように励みま した。スポーツは結構万能だったので、2軍にいたラグビーチームで熱心に取り組ん だ結果、短期間で1軍に移され学校のリーダー的英国人数名と親しくできるように なりました。勉強面では英国英語に戸惑っていたので、英語科のヘレン先生にお願い して1対1で英語の指導をしていただけないか頼み込んだところ、ヘレン先生は喜んで 引き受けてくれたのです。また、いろいろな困難に遭遇した場合でも、“悩むほどの 時間的余裕は無い”と自分に言い聞かせ、自分で正しいと判断したことに沿って、行 動をすぐに起こすことを心がけたのです。この他では、授業の一つに形のあるものを残そ うと思い、木工の授業をとりました。 この行動を起こしたことによって、環境はガラット一変して生活し易くなったのはいうまでもありません。英国人は日本の戦後復興がわずか21年で達成していることを尊敬していました。又逆に香港からの生徒は属国あつかいで相手にしない、インド人は準属国あつかいで、差別も際立ったほどではありませんでしたが、確かに存在しました。 私はこの経験から留学する生徒は英語力を養うだけでなく、充分なオリエンテーションを受けて渡航すること、自分に閉じこもらず積極的に行動を起こすこと、そして他国で同胞と時間を過ごすのは留学の意味を半減させてしまうことを肝に銘じて留学していただきたいと願っています。香港から来ていた生徒は2人でしたが、いつも一緒で最後までイギリス人社会に溶け込めませんでした。留学成功の鍵は出来るだけ早くその国に溶け込み、自分の日常生活を築き上げることだと確信しています。
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新しい体験から学んだあれこれ(1)
まずはぜひ強調しておきたい点がありますのでもう一度触れます。学校に少しずつ慣れていったこともありますが、大切な焦点は共通のスポーツを通じて英国人と知り合えたことが自分の生活を一変させたことです。英国人は取っ掛りとしては近寄りがたい人種ですが、一度心を開くとその友情は何ものにも変えがたく、互いに思いやりのある人間関係が築けると今でも信じています。ラグビーの一軍で知り合ったリーダー的英国人数名から、休暇中を彼等の自宅で過ごさないか誘われ、一番の親友になったアレ ン・ローズの家には1967年、留学した翌年の春休みにお世話になりました。あと数人の友人の家には週末訪問してロンドンやダービーの市街地等を見学させていただきましたが、今でも残念に思うことは、ガイ・ダンカムのバルセロナ(スペイン)にあった別荘と、キム・スティーブンスンのカンバーランドにあるお城の自宅へ誘われながらも行かなかったことです。息子を週末迎えに来校する英国人の紳士や金持ちを見るたびに度肝を抜かれるばかりでした。英語の発音も威厳があるのもさることながら、例えばキムの父親がある週末に訪問したとき、運転手つきでベントレー・ロールスロイスを正門の駐車場に乗りつけたのです。しかも父親はカンバーランドの伯爵でした。また、母親がきたときはアストンマーチンDV6で来校しました。総ての親は、そのいでたちといい、乗ってくる自動車といい、とても庶民とは呼べない、堂々とした風格を感じさせる親ばかりでした。
このような親の息子達でしたので、彼らに日本の奇跡的復興について聞かれたり褒められたりすると、自分が日本人であることを意識せざるをえませんでした。当時ロンドン・タイムズとガーディアンは一週間にわたり紙面数ページを毎日割いて“日本の奇跡”と題して経済的発展を理論的にそして文化的分析も行っていました。さらに21世紀までにはアメリカをも抜き去るであろうという大胆な予測までしていたのです。友人達はこの記事に目を通していて、いろいろと質問してきたわけです。この経験は、勤勉で努力を惜しまなかった大正時代の大先輩に心から感謝しました。国家としての繁栄は、世界の資本主義国の間で評価されその国民が信頼されることを意味しました。このときほど日本のパスポートを持って渡航することの意味と日本人としての誇りと責任を強く感じたことはありません。
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新しい体験から学んだあれこれ(2)
生徒が社会人に育つ過程で必要な経験は、しっかりと会得できるように学則で細かく整備されていました。また法律についても青少年の教育や健康上悪影響を及ぼさないように、メディアの利用には当時からかなりの制限が付けられていました。例えば学則の場合、食べ物やお金を別送することを、厳禁する項目がしっかり出来上がっていました。学校は充分な栄養バランスとカロリー計算の上、三食の食事を与えているので食べ物やお金の別送は間食を奨励し太らせる元であり、偏食をも助長するため、厳禁していたのです。また、決められたお小遣いを毎週生徒に手渡しているので余計な仕送りをしないでほしいというのもあります。ちなみに当時英国は月給制ではなく週給制で、その制度にしたがって小遣いを与えているので、余分な金銭を与えることは秩序を乱し、生徒間の力のバランスをもくずすと断言していました。今覚えなくてはならない、社会人になった時の節度や常識を教育できなくなるというのです。さらに、お金は権力をあらわし、いつでも自由に使えると生徒が認識してしまえば、物質欲が増し他の生徒の物を盗んだり、またその反対に金持ちから盗んでも困らないだろうと、盗難が増えることは過去の実例でわかっていると、具体例が盛り込まれた説明になっていました。それではまったく例外は無いのかといえばそうではなく、理由と目的に正当性があれば文書で申請し、必要額を記載し、寮長先生が認めれば一時学校が立て替えるように決められていました。
法律上の一例をあげると、酒類やタバコ類のテレビ広告は一切厳禁でした。マスメディアの中でもテレビのように見たくなくても目に飛び込む広告で、青少年の育成上好ましくない影響を与えるとして酒・タバコは禁止されていたのです。本来の民主主義とは“報道の自由”があるからといって“何でもあり”ではないと、このとき思いました。実は三年後の1969年夏、日本へ帰国したとき“イレブンPM”という番組の中で視聴率アップの手段として女性の上半身をさらしているのを見たとき、自由の取り違いもはなはだしいし、それにもまして、女性自身が男女平等を否定していると、強いショックをその時受けました。
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新しい体験から学んだあれこれ(3)
前回、学校の食事は充分な栄養バランスとカロリー計算がなされていると書きましたが、そうだっただろうと思います。但し大半の食事の内容は今までに食べたことの無いものが多く、しかもどう褒めたくてもとても美味しいとはいえません。例えば朝食はベーコン、スクランブルエッグそしてニシンの燻製のローテーションが日々続きます。食パンと牛乳はいくらでもお変わり可能で、高2以上はコーヒーか紅茶かどちらでも飲めましたが高2以下は紅茶のみでした。昼食ですがほとんどの場合、パン焼き鉄板にシチュー状に煮込んだサイコロ状の牛の腎臓を入れ、その上からマッシュドポテトを覆いオーブンで焼き上げたkidney pieか、腎臓の変わりにひき肉にして調理法が似ているshepherd pieでした。デザートで印象的だったのはrice puddingで、お米を牛乳で煮込み砂糖と干しブドウをいれ、お粥状にした食べ物です。さすがにこのデザートは当初2ヶ月程食べられませんでしたが、人間は変化に対応できるというか、さすがに空腹には勝てず3ヶ月目には何でも食べていました。満腹まで食べられないときは、その分勉強部屋でトーストにバターをぬりマーマイトというコンソメを5,6倍濃くしたあじのペーストを薄くぬってコーヒーで腹に流し込んでいました。最高なご馳走は土曜日の夕食です。割り当てられているのですが、反対側が透けて見えるような薄いローストポーク2枚と温野菜そしてデザートには四角いバニラアイスクリームと缶詰の桃半分でした。最高な食事はこれ以外には今でも記憶にありません。郷にいれば郷に従えという父との約束を守り、留学中は日本食を休み中といえども一度も口にしませんでした。
私がもっとも感銘を受けたのは、教育者の態度でした。私が受けた授業で補習をお願いして断った先生が一人もいなかったことです。予定があった先生もいたように見受けられましたが、それでもいやな顔一つせず、こちらが理解するまで説明してくれました。生徒への教育には手抜きは一切なく、多分この経験が将来、私が留学援助業務に手を染めることになった一つのきっかけではないかと思います。学校校舎内や寮はどこを歩いてもギシギシ音がする、100年以上も経つ館ばかりでしたが、教育は立派な建物や施設ではなく、なにを使命として学校が運営され、そしてそれをどれだけ忠実に実行しているかだとこの時感じました。
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お蔭様で50回を迎えました。
新しい体験から学んだあれこれ(4)

11月も下旬にさしかかったある日、ロンドンのスコットランド・ヤードから手紙が届き、自宅の親元に写真が送られたか聞いてきたのです。ロンドンで巻き込まれた事件を心配してのことですが、もしも受け取ってないようなら必ずロンドン警察に出頭するようにいってきました。警察が写真を撮って送りますとの再確認だったのです。これにはさすがに感心させられ、同時にイギリスに対する悪い印象は吹き飛びました。時を同じくして日本から直接私の衣類が入ったフットロッカーが直接手元に届いたのです。日本ではこんなことは絶対におこりえません。まずは最寄りの税関へ葉書に記載されている期日中に出頭するよう要請され、出頭すると公務員が鍵を開けるように命じます。中身をかき回し貴重品をしらべます。なければそれでオーケーですが、いずれにしても一般市民のとりあつかいの違いを多いに感じます。ましてやイギリスでは私は外国人ですから、何か怪しいものを密輸すると疑っても不思議ではないからです。アメリカでは元々人は疑うものととらえている印象を以前のアメリカ訪問で感じました。一番ひどかったのはトラベラーズ・チェック(TC)は証明書2枚最低なければキャッシュにしてくれません。更に証明書が仮にあっても、必ずTCの裏にパスポート番号を控えていました。お国柄の違いといってしまえばそれまでですが、国の法律とその方法論によって、なにか社会的に国民が成熟できないでいるシステムが日本のようで気にかかりました。
話し辛い内容ですが、私がイギリス留学中の3年間、生徒が3名亡くなりました。一人は落下傘が開かなかったまま地上に激突。一人は学校の近所の川で大雨の後、カヌーに乗ってキャップサイズ。引っくり返ったまま立て直せませんでした。そしてもう一人は学校のエクスペディションでアイスランドへ行き、クレパスに落ちて命を落としました。いずれも教育の一環として生徒が参加したものですが、学校側は一度も訴えられませんでした。3名とも高2と高3年生であったことを付け加えておきます。判断は皆さんに委ねますが、私は結婚して息子ができたときは、同じ経験をこの学校でさせようと思いました。
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