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もう一つの忘れらない出来事は、毎日父の会社の番頭さんが初めはスクーターで、数ヶ月後はトラックで送り迎えしてくれたことです。幼稚園の入り口には身長の高い人がおでこをぶつけそうな位置に鴨居がありました。スクーターで園内に乗り入れるのですが、そのたびにおでこを派手にぶつけていました。ある日私を迎えにきた時、勢いあまってスクーターから放り出された事を覚えています。後日分かった事ですが、番頭さんが送り迎えしてくれたのには理由がありました。用水路をはさんだ幼稚園の向こう隣に当時バブコック日立と言う会社があり、朝8:00に購買課を訪問していたそうです。幼稚園に通い始めた頃は営業の開拓を始めた頃で、スクーターで午前と午後の2回毎日通い、朝スクーターで午後トラックになった時は朝注文をいただきに行き、午後製品を届けるためだったそうです。番頭さんの手を抜くことのない日頃の努力と購買課に直接、日に2回赴く事の苦労。とにかくどうしたら開拓先から注文をいただいてコードをもらえるかが毎日頭から離れる事が無ければ、鴨居への衝突もありかなと大人になってから考えたものです。"継続は力成り"も、番頭さんがスクーターを卒業して自分専用のトラックを会社から獲得した事でもあきらかでしょう。(2) セントジョセフでの印象は、人間として約束を守る事や約束を守らなかった時の罰とはなにかを教わった小学校低学年、文化と表現力を教わった小学校中学年、そして本来教わるべき、競争力とは何だったかが、“挫折”とは何かを肝に銘じてこの時期教わりました。次回はこのそれぞれの時期について書いてみたいと思います。 (3) 朝8:00時の朝礼後、整列してマリア像の前でお祈りをささげ、その後は整然と二列になって建物に歩いてはいりました。カソリックの学校でしたので週3回、1回一時間のキャタキズムと言う旧教の勉強があります。朝の朝礼後のお祈りは、気持ちを謙虚にさせ学校が始まる前の心の準備に役立ちましたし、週3回のキャタキズムは、いったい誰がバイブルを書いたのだろうと思うほど、物語に魅了されました。ただ、バイブルに登場する聖人達が最後に神との約束を破り、罰せられる事にいつもなぜだろうと思いました。 学校生活の中で一番緊張したのが約束を守り規律を乱さない事だったように思います。宿題の提出厳守、クラスの移動時間厳守、九九のように覚える必要のあるものは、決められた月日までに先生に発表しなければなりません。約束を守れない時は体罰がありましたが、これはみせしめとか陰湿 なものではなく、約束を守れない自分の責任であることが先生とのやりとりや、態度、目の動きではっきりとしていました。約束を破ると定規で手の甲をたたかれました。また学期末は毎回大イベントがあり、校長先生が各クラスを回り通信簿を持ってくるのですが、成績の良い生徒は祝福され、悪い者はその程度によって、前屈させられ木の鞭で尻をたたかれ、時には木が折れる程でした。こうして成長していく上に必要な躾をしっかりと身に付けさせられたと思います。 (4) 英語力も益々必要で勉強もハードになりつつあった小学校3年生。両親は、思うように英語が上達しなかった私の環境を変えようと学校の寮に2年間入れました。日常生活から英語浸けにしたほうが本人のためには良いと考えたのでしょう。家に帰れるのは金曜日の夕方で日曜の夕食にはまた寮に逆戻りでした。寂しさに気が付いたのは、金曜日家に帰る時のわくわくした気持ちとはうらはらに、日曜寮に帰る時の気落ちした気分でした。毎週金曜日の晩だったと思いますが、プライムタイムにディズニー映画が放映され、未来・自然・漫画いずれかの世界を一時間見られる事に無類の喜びを感じていたことを今でもしっかりと覚えています。寮生活は家族の大切さを教えてくれ、またディズニーの映画からはどんなきっかけでも良いから、希望を持つ事に自ら目覚める重要性を学びました。ディズニーの発想、独自性そして人間味豊かな思考は、心底勇気と希望を与えてくれたと思います。 寮生活では2つ忘れられない出来事がありました。一つは毎学期一回実施される火災・地震訓練です。その演習に参加している我々生徒にとっては、起こされる時間帯が午前2から3時頃だったので、寒い中、どうしてこんなにも頻繁にやるのかなと思いました。おもてに避難すると必ず点呼をとるのですが、いつも同じフィリピン国籍の生徒が訓練に気付かず、寝たままでした。この経験は後になって、万が一のことを常に考えることの大切さを身に付けるきっかけとなりました。つまり自分の危機管理に結びついていることに気付かされたのです。もう一つの出来事は、週末が終わって寮に帰ると、母親が焼いたクッキーを持ち帰ってきた外国人がそのクッキーを売っていたことです。まさか母親が作ってくれたクッキーを売るなど考えたこともありません。でもこの経験は、価値観が一つではない事を如実に教えていたのだと思います。 (5) 寮生や昼食を持ってこられない生徒は、学校のキャフェテリヤに唯一ケータリングサービスで食事とデザートを収めていた元町のキクヤに週一度、金曜日の午後、来週一週間分の飲み物、ランチとデザートをアラカルトから選んで申し込みました。この時の習慣は今の我が家に多いに反映されています。外食で出かけると、見事なまでに誰一人として同じメニューをオーダーしません。 学校では、通常の教育の他に文化や芸術を大切にしていたと思います。まずはペンマンシップといって、3年生の時、徹底的に字を綺麗に書くことを教わりました。さらにゴシック文字を特殊なペンでヒゲ文字にして書くことも教わりました。この経験は自分の国の文字に敬意を表し大切にすることと、文字は服装同様、自分の性格や個性をそのまま表すと認識しました。中学生の時、自分でペン習字の練習本を購入して、漢字やひらがなを練習したものです。 小学生4年以降は、学校が推薦する映画を結構見ました。見た後は必ず感想文をかきました。見た映画の中では"オーケストラの少女"、"マルセーリノ"、"十戎"、"スパルタカス""モーゼス"のような作品が今も頭の片隅にあります。いずれも心に残る名作だったと思いますので、チャンスがあったらみなさん見てください。 この時期、私は将来本気になって牧師になることも考えたことがあります。 (6) 当時どれぐらい貧乏かといえば、自然になる柿は渋柿でも誰かが取ってしまいます。今は自然の柿を取る人はいない。そして、秋に山手線に乗り外の景色を見ていると、熟した柿が目に入ります。おばあちゃんも叔父さんと隣に住んでいましたが、おばあちゃんの大切にしていたイチジクの実も食べごろかなと思ったときには、盗まれていました。赤ん坊の布オムツもボロ布が不足していましたので、綺麗に洗って干しておくとなくなる時代でした。冷蔵庫は木の箱でできていて、夏は毎日氷のかたまり一貫(約3.75キロ)を氷屋さんに届けてもらい、食品を保存しました。冷蔵庫のない家のほうが大半だったように記憶しています。調味料などは、隣から借りたり、時には貸したりしました。暑い日は冷房自体がまだありませんでしたので、窓を開けたまま寝るのですが、蚊が多かったので、天井からかやを吊って家族全員がその中で寝ました。これは皆で毎晩かくれんぼをしているようで、楽しかったことをよく覚えています。ちょっと汚い話ですが、トイレはくみ取り屋さんが定期的に回ってきて、長い柄のついたひしゃくで、汚物をすくうのです。トイレで用たしをしているときに下でくみ取りをされることも多々ありました。 冬場はフトンに湯たんぽをいれました。陶器のいれもので長円形にできていて、熱いお湯を入れます。それを手ぬぐいでくるみ火傷をしないようにして足が暖まるようにかかとあたりに置きました。ご飯は炊飯器のない時代ですから、お釜でたきました。ある夜食事が終わって、しばらくしてお勝手に行くと、お手伝いさんがお釜にこびりついたご飯にお湯を浸しふやけたところを手でつかんでいました。何をしているか聞くと、お百姓さんが苦労して作ったご飯を一粒もむだにはできなないと言い、残りをきれいに食べました。私は、その時以来お米を一粒たりとも無駄にしたことはありません。 (7) |
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いずれにしても、誉めることについては生徒を確実にその気にさせたと思います。油絵で良い作品ができると、まずクラス内で皆の批評を聞きながら、最後はなにが良く、場合によってはなにが欲しかったかをはっきりさせ、その日はクラス内に飾ります。月一回の展示会には、その作品を廊下に必ず展示して、全校生に見てもらうのです。社会人になってから、あの教育体系はたいしたものだったなと多いに感じました。"教育は一日にして、まさに成らず。しかしながらいかなる道も生徒の健全な育成と成長に通じています。"これが教育の真髄です。この体験は学校の歴史とか内容がいかに重要で、有名大学への進学率の高さは学校の質にまったく関係ないと確信させられました。 スポーツにおいては、当時まだ一般的にはそれほど普及していなかったバスケットボールやサッカーが主流で、特にサッカーは力を入れていて、その実力はオリンピック代表と戦うほどでした。スペイン人のブラザー・ザバラの熱血指導は評判で、成人相手の試合はザバラ自身も常に熱く戦っていて、それもその先生が人気のあった理由だったと思います。 友達関係では、ドイツ人のエンドレー、日本人の岡田、アメリカ陸軍将校の息子、ダッフィーその他何人かと友達になりましたが、思い出は現在本牧のマイカル地区にあった進駐軍居留地に入った時でした。軍服はかっこいいし、乗っている屋根無しジープもさまになるし、サングラスと帽子も本当に似合っていました。居留地にはPXがあって食料の必需品はここで購入していたようです。物の豊かさは目をみはるばかりで、子供のおやつも溢れるほどありました。漫画で包んであるチューインガム、エム・アンド・エム、ロリーポップス、リクリッシュ、ミルキーウェイ等々数え切れないほどのおかしのオンパレードです。友達の自宅にはコカ・コーラがケースごと置いてあり、好きなときに飲めるんだなあと思うと、とても羨ましくなりました。先進性はこれだけではありませんでした。ある日、台風が関東に影響を及ぼしかけていた時進駐軍居留地にいたのですが、ダッフィーのお母さんがすぐに帰えるようにと言われました。その理由は居留地内に揚がっていた旗の色でした。色によって台風に対する準備を呼びかけていたのです。予報は関東直撃で、屋根に板をうちつけて補強する指示がでていたそうです。その後台風は直撃しました。驚くばかりでした。 (8) 日本の学校にはないことばかりの日々でしたが、総てが順風満帆ではありませんでした。私の祖母が亡くなったとき5年生でしたが、そのとき目にした祖母の脚の細さに恐怖すら感じ、脚と体を鍛えようと自転車を買ってもらい、それに乗って毎日学校へ通いました。5年生が終了した夏、元町プールに通いました。台風の日も通い、たぶん一日も休まなかったと思います。6年になり冬が近かずくと、痛みが関節を襲い、この痛みが盲腸にとんだとき、医者は盲腸と判断し即刻手術との診断をくだしました。母はこの結果に懐疑的で、私を連れて帰り翌日南区にあった小児科に直行しました。診断はリュウマチ熱で、痛みが心臓にとぶと心臓弁膜症になり、そのときは一生車椅子になるとのことでした。 闘病生活は一年におよびました。あるとき4歳年下の妹が"かたわ"呼ばわりしたとき、はいずってもつかまえるつもりでしたが、当然つかまりませんでした。この言葉は一生忘れません。この経験で、寝たきりの人に対する思いやりの気持ちが、自然にはぐくまれました。不思議にも、けなされた言葉が、"なにがなんでも良くなる"と強く思うきっかけになったのをよく覚えています。 一年のブランクは大きく、セントジョセフに6年で復学して通い始めた翌年の冬、理解力が不十分で学校を退学せざるをえませんでした。人生における初めての挫折でしたが、同時になにか肩の荷がおりたような気持ちでもありました。 親には一生涯感謝の気持ちで一杯ですが、最も感動し、人生で初めてあれほど感謝の気持ちを持ったのは、玉川学園に入学させていただいたときでした。 (9) 面会していただいたのは中等部の部長岡田陽先生で、身長も高く、スーツもきまっていて外国生活の経験があるような風貌でした。私の父も当時としては大変おしゃれで、服は総て英国の生地でつくり、身長も180センチありましたが、ダンディーさは二人ともいい勝負でした。30分も会話が続いたでしょうか、私も岡田先生の質問には率直に答えましたが、この限られた出会いだけで"引き受けましょう"とあまりにもあっけなく入学が決まりました。それも中学2年生で大丈夫ということで、母が中学校に行った経験がないことをつげても"英語ができるお子さんは大丈夫ですよ、しっかり勉強して下さい"と言って誰に相談するわけでもなく合格が決まったのです。 学園入学後"服装は人格をあらわす"、"家族にあえば家庭環境がわかる"と言ってはばからなかった小原國芳園長の礼拝でのお言葉はまさにこのときのことを語っていたと思います。父が面接に出てくれたことに感謝したし、やや恥ずかしかったですが、後日、父母会長も引き受けました。この経験で、私が大人になり子供ができたらどんな場面でも、学校の面接を含む学校行事に必ず出ることをこの時、心に誓いました。 その場で決まって、入学できたことは本当に気持ちを晴々とさせてくれたし、一つのすがすがしい覚悟と自覚をしっかりと与えてくれたと思います。 (10) 玉川学園がどれだけ教育に熱心だったかと言えば、生徒だけではなく生徒とかかわる総ての"人""物""事"を実に大切にしていた事だと思います。先生についてニックネームのない先生は一人もいませんでした。それでいて先生は生徒から皆尊敬されていました。ちなみに私のクラスの担任は美術の佐藤先生でしたが、いつもなにか汚い格好をしていたので"西洋こじき"と呼ばれていましたが、それを知りながら意に介しませんでした。同じように保健室の安岡先生は生徒に怪我があればすぐ赤チンなので"赤チンババー"、英語の菅浪先生は牧師ですが髪を7:3にわけサラリーマンにしか見えないので"にせ牧"、社会科の坂本先生は"九"さん等々です。部長先生も"岡ちゃん"でした。 クラスも何年何組ではなく、総てのクラスを世界各国の山脈の名前で呼んでいました。私のクラスは崑崙でしたので、どこにある山脈なのか調べたものです。人間の教育にかかわることは、なに一つ、はしょらない。これが玉川精神の実感でした。歌で始まり歌で終わる一日。常にどこかで生徒の合唱が聞こえていたような気がします。 (11) 芳学園長がどんな教育を受けらたのか大変興味をそそられましたし、"おやじ"の壮大な理念・理想を感じずにはいられませんでした。しかも日本人として、世界にこの民族ありという確固たる哲学を持って、全人教育に取り組んでおられたと、私も近年の経験と世界観を身につけ、理解しはじめました。 教育を望む者が諸事情により学校に通えない(例えば身体障害者・外国人二世・当時の韓国・中国人籍、時代の背景で教育を受けられなかった者など)個人・生徒に通信教育を積極的にほどこした教育者があの当時何人いたでしょうか。普通どんな事業を始めるにもまずは余計なことは考えず本業をまっとうする、これが精一杯ではないかと思います。かつてセントジョセフにいたころ、キリスト教を普及させる、知性をもたせ教育をほどこすために牧師がその生涯を異国で、その一生を閉じ、山手の外人墓地に葬られる彼らの精神に、外国人の偉大さを感じずにはいられませんでした。当時あるブラザーが亡くなり葬式に参加したとき、深く尊敬の念を持ったことを忘れません。それに似た意識を玉川学園設立者の哲学に感じずにはいられませんでした。すでに1950年頃には通信教育を始めていたと知らされ、二度驚きました。現在は生徒数が減っているので通信教育を実施している学校も多々みうけられますが、教育の原点をみすえて玉川を興した"おやじ"の偉大さを感じ、聖山の礼拝堂で行われる"おやじ"じきじきの講義・ミサをいつも楽しみにしていました。 玉川学園のモットーは"人生の最も苦しい、いやな、辛い、損な場面を、真っ先に微笑をもって担当せよ"。日本に本来あった文化に今はなにがかけてしまったのでしょうか。 (12) 次の印象は、当時、学園を歩くと心地よいアカデミカルな雰囲気が感じとれたことです。小学校の校舎前には、デンマークの有名な童話作家ハンズ・アンデルセンが腰掛けている銅像があり、また、坂をあがり始め右に高等部のグラウンド、左に目をやると小田急線をはさんで左右に学園の敷地がありましたが、いちばん生徒・学生にとって便利な掛け橋には松陰橋と命名してあり、吉田松陰の銅像もありました。玉川精神の一部を垣間見ました。吉田松陰については、どのような人物だったのかその後文献を読み、大変な刺激を受けたと思います。29才の若さでこの世を去りながら、明治維新の立役者に門下生があれだけいた人望の持ち主。時代の背景もありますが、それだけでは人は動きませんし、明治維新は達成できなかった事でしょう。そこには最後まで人を動かす"教育真理"があったと思います。 "おやじ"の実施する活動は、私が見て知る限り、常にナンバーワンでした。1930年、スキーの世界では最高峰であったオーストリア・スキーの第一人者ハンネス・シュナイダー氏を学園に招聘しており、私が中学校3年の1963年にはオーストリア国立スキー学校長クルッケンハウザー教授とデモンストレーターを招聘しました。そのスキーパフォーマンスには感激したものです。玉川は当時から世界ナンバーワンのスキーを取り入れていました。体操も1931年にデンマーク近代体操をとりこみ、これも玉川の伝統になっています。音楽の世界では1937年、当時第九指揮者の第一人者であったヨーゼフ・ローゼンシュトックの指揮のもと、玉川初の"第九"の合唱をおこない、今も年末に恒例として歌っています。1952年ノーベル平和賞を受賞されたアルベルト・シュバイツァー博士婦人が1963年学園に招聘され、南アフリカで黒人の医療に尽くしている博士の功績をたたえ、"おやじ"は当時最先端の電子顕微鏡を寄贈しました。私には何もかもが感動一杯でそれぞれが深く印象にきざまれ、玉川の生徒であることに誇りを感じました。 (13) 一年を通して労作、自由研究、そして週番というようなシステムがありました。労作は中学校を取り巻く自然環境を生徒達がクラス単位で先生の指導のもとに手入れをします。自分にかかわる周辺の状況を無視しない。むしろ積極的にかかわることのトレーニングにつながります。この経験は後にイギリス留学したときに、友達創りに役立ちました。 自由研究は自分の得意分野をさがすことによって、個性を伸ばすための試みだったと思います。学校が広く与えた学業分野から、自分が選んだ学問の研究を三年間通して実施し、毎年中学部展において作品を発表して外部に公表します。最優秀賞は小原賞としてもらいました。中には二科展や私のように東京都の中学部英語の弁論大会に参加したこともありました。優勝するのはあたりまえでしたが、帰国子女もいたりする中、やはり賞を大勢の前でいただく事は多いに自信につながりました。 週番制度としては、決められた生徒が一週間早めに学校へ行き主に鍵の開け閉めと、校舎全体の管理をします。冬は自分のホームルームが木造の場合、ルームメイトのためと昼には皆が暖かいお弁当が食べられるように、だるま型ストーブに火をおこし部屋を暖めておくのです。ストーブの隣には金属で作った弁当乗せがありました。学校に通い始めて三ヶ月もしないうちに、学園と中学部生に対する感謝の気持ちを形で表したいと思い、毎朝五時には自宅を出て六時半頃学校に着くと、全校の鍵を開けて歩きました。勿論冬場はホームルームのストーブにも必ず火をおこして部屋を暖めておきました。私のよくなかった体調はこの時期みるみるうちに回復にむかっていました。私の弁当を準備してくれた母の四時起きにも、心から感謝しています。 (14) まず初めに学園生活が始まって半年もしないうちにかなりの部分健康を取り戻すことができ、さらに夏休み臨海学校に参加する事で自分の健康に自信を持ちました。これは岡田部長先生の配慮によるもので、きっと私の健康をかげながら見ていてくださったからだと思います。遠泳参加を許可してくださったことと、クロールしか泳げない私をしんがりにして泳がせました。さすがに3,000メートルは泳がせてくれませんでしたが、1,500メートルに参加し、無事泳ぎきりました。健康を取り戻したことは何事にも変えがたく、心の芯から喜びがこみ上げてきた事を今でもしっかりと覚えています。 夏休みは、この他に学校で合宿があって校舎に泊り込み、労作に励みました。2年の時は木造校舎の中庭にピーターパンの池を皆で協力しあいながら製作しました。夏休みが終わって学校へ行くと、夏中かけて創ったピーターパンの池が中学生全員の労作の結果、出来上がっていました。大きな達成感と自信そして一体感を意識したことは言うまでもありません。3年の夏はアトラス池を全校の生徒の協力で創り、私は臨海学校でまたしてもしんがりをうけもちクロールで3,000メートルを泳ぎきりました。 冬休みは学校主催のスキー学校へ2年から参加しました。スキーは一度も経験したことはありませんでしたが、世界一流のオーストリヤスキーのデモンストレーションに大変感動して、無我夢中になってまねをしたものです。おかげさまで、3年時のスキー学校ではパラレルができるまでに上達し、その3年後にスイスアルプスにまで行って腕を磨きました。 玉川学園が基本とする一流の教育哲学。この哲学にうらづけされた教育指針は生徒に確実な価値観を形成させ、大人になるための本物をみわける、そして自らが実践・実行する思考を与えたといえます。 (15) このクラスからは私を含めて少なくとも3名がその後、海外留学しています。それほど小平先生から刺激を受けたものです。ある時宿題の一つにwhichを使って文を書きなさいというのがありました。私は"Which is which"と書いたらもっと努力しなさいと叱られましたが、他の生徒には"文は短いですが、言葉で遊べるようになる事は特に外国語を学ぶ上に必要です"と言われ、文法にはこだわらず柔軟性に富んだ皆を巻き込む授業を実施しました。先生の日頃のお言葉は"語学は習うより慣れよ"でした。玉川学園は、極端な型にはめない自由な教育をあの当時から実施していたのです。 小原國芳学園長の礼拝堂での講義は今まで書いてきた内容の多くが含まれていますが、さらに玉川を去った何年も後にまですごい"おやじ"だと感動させられた礼拝でのレクチャーがいくつもあります。それは、学園長が生徒に話したことは必ず実行したということです。学園内の道は舗装する、女子短大を建てる、農学部・工学部を建てる、高等部にオリンピックサイズの50メートルプールを造る等、当時は"ほら吹きおやじ"とも噂されるほどそれは誰の耳にも不可能、夢のまた夢と思った事です。それでも年を追って学園内の道が舗装され、女子短大ができて、工学部が着工され始めたときには、"ひょっとして全部出来ちゃうんじゃない"と思ったほどです。50メートルプールは留学して数年後学園をおとずれて、高等部で発見しました。 中等部2学年そして高等部2学年半、驚きと感動、そして玉川が誇る教育理念が私の基本的な人間形成にどれだけ影響を与え、人間として何をするべきかその確信にせまる真実にふれる機会を与えてくれたと思います。その真実を実践で体得するため高校3年の後期、海外に留学することになります。 (16) 私が生まれてから15年が経ったわけですが、1950年代後半から日本は破竹の勢いで経済発展をとげていきます。1963年は東京オリンピックの前年でしたが、私は"日本"と"国民"双方が国の発展にたいして、自信に満ち溢れていた事を肌で感じていました。あの当時がおそらく、国家としてそして国民が自国を築く担い手として、まったく驕りを持たず倫理観と文化を無意識のうちにもしっかりと自覚・認識して、国民としての一体感を日本中がその活力と精神力で覆っていたのだと考えています。 次回はもう少し時代背景について語ってみたいと思います。 (17) ビッグプロジェクトとしては、オリンピックに間にあうように高速道路が目に見えて作り上げられて行き、また東海道新幹線も開通に向けて、ぞくぞくと建設が進められていました。国家にはっきりとした方向性がある時、見事なまでに国民に崇高な建国意識が芽生えるものなのでしょう、私はそのエネルギーを肌で感じていました。1963年はまたもう一つ興味深い壮大なプロジェクトがアメリカで進められていました。それは、年内衛星放送を通じて画像をリアル・タイムで送ってくることでした。日本の先進性に誇りを抱いていた私は、そんなことが本当にできるのか半信半疑でしたが、忘れもしない11月22日金曜日、テレビ画像の第一弾がアメリカから日本の茶の間に届きました。その第一弾はショッキングで、テキサス州のダラスでケネディー大統領が暗殺された内容でした。前年1962年の10月27日土曜日、ソ連がキューバにミサイル基地を作るためキューバに船で接近しましたがそれを察知したアメリカは軍を派遣、戦争か平和かを迫りました。世界の誰しもが世界戦争の危険性を感じ取り、かたずを呑んで状況を見守りましたが、若い大統領ながらケネディーは見事に阻止したのです。 日本の先進性か、放送衛星を打ち上げるアメリカか、どっちが社会全体としてすすんでいるのだろうかと率直にこの時期思いました。またケネディーが撃たれたとき血しぶきがはっきりとテレビで見て取れ、報道があまりにもリアルで何回も放映しながら暗殺の分析をしていましたのでどんな国なのだろうと興味も持ちました。高校2年時に玉川でアメリカへ行く機会がありましたが、そのときの体験はあとで必ず書いてみたいと思います。 (18) それに代わってと言っては語弊がありますが、この時代洋画はよくみに行きました。エリザベス・テーラー主演のバターフィールド8とかクレオパトラやジェリー・ルイスの珍道中シリーズそしてエルビス・プレスリーシリーズ等、大人の映画や喜劇を友達とかなり見ましたし、ボーリングにもけっこう通い外国文化とか娯楽にとっぷりつかっていました。高等部一年時に東京オリンピックの水泳自由形でドーン・ショランダー選手がなんと4つの金メダルを取るなどで、アメリカへのあこがれと日常のお遊びに刺激され、さらに興味を抱いたのは間違いありません。 そんな中、玉川インザUSA計画、第一回留学生派遣の募集が高校2年の時ありました。短期の英語研修でしたが、日常生活にかなり自己不満と自己嫌悪を持ち始めた頃で、即、飛びつきました。総勢38名で、大学生唯一人の今井さんを先頭に中学生も一人で英語力に大変優れていた玉川君、あとは全員高校生でした。目的地はイリノイ州の北西部に位置する人口9,000人弱のマンモス市で農村地帯の大学町とのことでした。計画としては羽田からサンフランシスコへ飛び、そこからは貸切りのグレーハウンドバスで中部のイリノイまで行き、研修後はまた貸切りバスで東海岸のワシントンDCを経由して南はテキサス州のヒューストンでホームスティを体験し、その後はアリゾナを通りロサンゼルスへ行く行程がくまれていました。次回はいよいよ私の留学志望を決定づける人生の転機について書いてみます。 (19) 飛行機から初めて見たサンフランシスコ市街は日本の住宅街と異なって綺麗な碁盤の目になっていたのが、印象的でした。自分の保有する土地の大きさがそれぞれ違えば、どうして碁盤の目にはっきりと区切れるのかが不思議でしたが、区画がしっかり出来ていれば視界がひろいので交通往来の時は安全だし、火事のような時は交通の便が良いので、行政が行き届いているんだなと感じました。早くもサンフランシスコ国際空港着陸前に日米の違いに気づき始めましたが、これだけではアメリカの先進性が優位とはまだみていませんでした。 さて、空港に到着して空港内を歩き始めると、ビルが大きいこともさることながら歩いても歩いてもいつ空港ビルから出られるのか、とにかく延々と続いた事を覚えています。イリノイ州のマンモス市から迎えにきて下さったのはアメリカ人のジムさんと英語がぺらぺらの“ホウジョウさん”という日本の方でした。空港ビルを出るとまず星条旗が目にとまり、まぎれもなくアメリカに上陸してしまった事を実感したのは、私だけではなく、何人かの生徒も“アメリカにきちゃったんだ”と言って、緊張感からかため息をついていたことです。 次回は日本では当時信じられない、ジムさんが免許証をとりに行った時のエピソードとアメリカだから味わえた大陸横断の経験について書きたいと思います。 (20) 翌日イリノイ州に向けて出発しましたが、私がナビゲーターとして、ジムさんのレンタカーで一緒に旅行することになり、いよいよ珍道中の始まりとなります。サンフランシスコから目的地のマンモスまで約3,250キロですが、この距離がどのぐらい遠いのか理解していませんでした。例えば単純に平均100キロのスピードで1日10時間走って目的地まで最速で3日かかります。サンフランシスコを出発したときは気温が約10度でしたが、インターステイツ80でカリフォルニアの州都サクラメントに約2時間で着くと、灼熱の太陽で気温はすでに33度を越えていました。気温の変化も想像以上でしたし、なによりも、2時間程度で145キロ近くを旅行したわけですから、いかに道路事情が発達していたか想像がつくでしょう。景色も森あり谷あり、そして砂漠ありで、とにかく"ばかでかい国"が私の第一印象でした。 カリフォルニアからネバダそして一路ユタ州を目指しましたが、ネバダの北東部ウェルズ町人口一千人強から次の町、ユタ州のウェンドーバ、同じく人口約一千人までの距離は98キロの道のりを出発したのが既に夜8:00でしたが、思わぬハプニングが待ち受けていました。 (21) ジムさんと私は、最後の手段としてエンジンをだめにしてでも水にかわるなんらかの液体をラジエターに入れる事を決め、風通しを良くするためにボンネットを上げ、真っ暗な周囲を見回しながら車をトロトロ進め赤いランプがつくと車を止めました。エンジンを止めていよいよ最後の手段を断行すると決めたとき、かすかでしたが清水の音がしたのです。 翌日、疲労こんぱいの状態でモーテルを出発しましたが、周囲は見渡す限り塩で、ユタ州のソルトレーク砂漠と聞き、地形のあまりの変化に驚かされたのと同時に、昨晩は車の故障後ついに一台も他の車に出会わなかったなーと思いつつ、昨日一日の回想に浸っていました。 アメリカは私の想像をはるかに越えた大陸で変化に富み、手つかずの自然にあふれるがゆえに常に気温差が激変するおそれがあり、万全を期した旅行計画をねることが必要です。大抵の町並みは歴史も特色もない一階建ての建物群で町並みが約150から250メートルも続くと、もう市外で自然に逆戻りします。食事は質も器も繊細さとバラエティーを欠きますが、どこへ行っても驚く程の量が必ず出て、例えばステーキなどは、少なくとも400グラムはあり、フライドポテトやポテトチップスが山ほど盛り付けられています。ハイウェーと道路標識は良く出来ていて大変分かりやすく、特に標識は子供でも道案内できるように造られていて、一日の移動可能距離は日本の2から2.5倍は可能でしょう。また、どこの町を通っても必ず星条旗が目にはいりました。そして色々な野生動物を事あるたびに車から見ることができました。今も記憶に新しいこの旅行の印象でした。 (22) 雰囲気としては"やられる"と思ったほど緊迫した空気が流れましたが、同じ2年の同級生が"僕も同じ主張だったので彼を殴るなら、僕も殴ってください"というと、3年生のリーダー格が大声で"オメーは黙ってクソして寝てろ"というと、いっぺんに緊迫感がすっ飛び寝室全体に笑い声が響き渡りました。その騒動を聞きつけてジム先生が階段をかけ上がってきて何があったのか問いただしましたが、シーンとしてしらけたまま一件落着となって、命拾いをしました。いうまでもなくその同級生とは今でも付き合っています。 セントジョセフ当時、先輩は常に尊敬できる行動を取っていましたし、下級生の指導をして助けてくれても、先輩ずらしてましてや年下に理屈の通らない身勝手な理由で恫喝するなど、到底信じられないことだし、許せませんでした。玉川の中学部でもこのような程度の低い出来事はありません。同じように高等部のクラブ活動でも、厳しさはありましたが、こんなばかげたことは一度もありませんでした。 その後、英語の出来る数名はウィスコンシン州で実施されるアメリカ人高校生の合宿に参加できたので、私もそれに応募してマンモスをいったん去りました。 (23) 食事時はいつもセルフサービスのブッフェタイプで、味はともかく主食は少なくとも3種類ありましたし、その他スパゲティー(これは日本のように主食ではありません)、サラダ、ドレッシング多数、野菜、デザート2-3種類、ソフトドリンク5種類以上と、とにかく種類もあれば、量も普通ではありませんでした。我々日本人はともすると目移りしてあれもこれも試してみたいということで、自分が食べられる以上にとってしまい、最後は大半を食べられず随分むだをして恥ずかしいことをしたと思っています。食事時誰かがひじをついて食べたり、口に食べ物が入っているのに話したりドリンクを飲んだり、はたまたナイフを舐めたりすると、歌の歌詞を変えて皆に大声で注意されました。 例えばこんな具合です。Tommy Johnson, strong and able. Get your elbow, off the table. This is not a horse's stable. アメリカで特徴的だったのが、身近に野生動物が棲息していたことです。リスはいたるところで観察しましたし、ウィスコンシン州では鹿を何頭も目にしました。鹿などを不慮の事故に巻き込んだ場合、警察に報告義務が発生します。日本だったらどうしていいのか分からないような、自然相手にかかわる細かい取り決め事や法律が随分とありました。 (24) マンモス市にはキャンプ後帰りましたが、私の短期研修の成果として、リンカーンのゲティスバーグ演説を完全暗記しました。説得力のある演説を聞かせるために、有名な演説は図書館へ行くとその見本テープがあり、それを繰り返し聞き勉強することができました。アメリカ大統領の演説が皆上手なわけを後日、この一件で気がつきました。 マンモス市の最後のイベントとしてホームスティが実施されました。私はディキャルブ・コーン(とうもろこしの大手生産社の1社)の中央北部地区マネジャーの家にお世話になりました。家に案内されるとどの部屋も小さくて8畳(1畳=1.75平米)、居間は15畳近くあったと思います。今日本で4人住まい、90平米あれば比較的スペースのあるマンションですが、平屋で200平米近くあったでしょう。アメリカと比較することがいかに無知だったかを思い知らされたので、聞くのもためらったのが本音でした。 これだけではすみませんでした。キッチンに行くと流し台がありますが、その中央に生ゴミをためる穴があるのが今の標準でしょう。(日本ではこの時代まだこの穴もありませんでした)それがアメリカではミキサーになっていたのです。つまり、生ゴミはミキサーでこなごなにして、そのまま流してしまうのです。私はつい愚かな質問をしてしまい、"水道管が詰まりませんか"と聞くと"What is this?"と逆に聞かれ"Don't bother!"と答えて顔が引きつったことを良くおぼえています。料理をする電気コイルの太さ(当時まだ日本ではない)は日本の1.5倍で電気代が気にかかりましたが質問は慎みました。バスに行くとトイレが一緒で広々としており、日本の暗いイメージとはまったく違います。なんだかでるものも出ないかと初めは心配しましたが、これも不必要でした。洗濯物はバスの洗面場付近から地下にダクトがつながっていて、地下に設置してある洗濯機のすぐに落ちるようになっていました。 次回はさらにアメリカ市民生活から彼等がどんな視点で社会をとらえているのか、書いて見たいと思います。 (25) ある日曜日にミシシッピー川に水上スキーを楽しみに行くことになりました。いきなり朝から行くものだと思っていましたら、日曜日はまず教会です。教会は地域社会にとって大切な役割を果たしていて、信仰上の必要性だけではなく情報交換の場であり、同じ宗派の地域に住む人々の健康状態も分かるし、場合によってはお互いが協力し合うというのです。一人住まいのお年寄りが自宅で亡くなって、一ヶ月も分からなかったというようなことは防げるのではないでしょうか。日本社会でも応用できる良い実例だと思いました。海外に住む商社の方々は、地域社会になじまない日曜の早朝ゴルフは慎むべきでしょう。 車庫にはモーターボートが一台、車が二台。ボートを引っ張ってミシシッピー川で水上スキーと、お昼はバーベキューをして思う存分楽しみ、本当にゆったりとした時間を過ごしました。なにかアメリカ人は休暇を楽しむことも熟知していたような印象でした。 (26) この決断に関して私には四つのことが頭の中ではっきりとしていました。まず高校一年の後半半年間と、2年当初のたるんだ生活にうんざりしていて、元に戻りたくない気持ちがはっきりしていたこと。めりはりのあるアメリカの生活が自分の希望していた生活で、日々良く学び・遊んで満たされていたこと。長男だったので父の仕事はいずれ継がねばならず、昨年のような無責任生活では百八十人近くいた従業員の生活に責任が取れるとはとても思えなかったこと。そして妹は当時玉川学園中学部に在学していたものの、小学校は横浜双葉に通っていたし、5才年下の弟は両親の協力のもと、受験して日吉の慶応中等部に合格。弟が自分の力と努力で勝ち取った結果は生涯どんな困難に出くわしても、しっかりと自力で問題解決 していけるだけの基盤と自信につながっただろうと感じ、自分だけが何も 達成できていないという、いわば劣等感に近い不安感だったのだと思いま す。 父と進路について話すにあたって、なにを一番のポイントとして留学を考慮してくれるか慎重に考えました。その結果、回りの人間的つながりや環 境のせいにして勉強が手につかないなどと言ったりすれば、留学に望む強 い意志と心がけがあれば、環境のせいにする事じたい納得しないだろう し、むしろ目が届かなくなれば、また自分の責任を回避するだろうと間違 いなく言われると考えた。もう一つ聞かれるかあるいは聞いてこな くてもこちらが調べておかなければならない事は、留学が本当に可能なの かという裏付けです。それは、アメリカの高校に転校できるとの確証を得 ることで、私は本プログラムデレクターの日系二世、塚本さんに相談に行 きました。塚本さんは地元の高校へ私と出向きその場で推薦することで、 入学の了解を取り付けてくれました。これで、父親に話せる準備を整 えましたが、さすがに胸がどきどきしました。気持ちを集中させ国際電話 を入れました。 (27) いよいよアメリカ語学研修も終わり、研修修了式がマンモス大学キャンパ ス内の野外でとり行われました。ホストファミリーの家族も参加してくだ さり大変感動的な式だったように記憶しています。どこの国でも修了式を 大切にし、滞在中お世話くださった方々が参加くださる心遣いに感謝しま したし、自分たちの成果に対して、皆で祝福してくださる好意は私たち生 徒に忘れることの出来ない思い出を与えてくれました。物事の節目節目に 意義をしっかりとつけることの大切さを、中学の卒業式以来再度経験した ように思います。 約三ヶ月間いろいろな形でお世話をして下さったアメリカの人達との交流を胸に秘め、いよいよマンモス市を出発する日が訪れました。人の心は人種にかかわらず皆一緒で、別れの悲しさを涙で互いに分かち合い、腕を回しあって別れを惜しみました。 これから始まるアメリカの観光旅行が別れを慰めてくれて、大都市をいく つか訪れる事を楽しみにしました。まず東海岸のワシントンDCを見学して から南部深くルイジアナ州のニューオリンズに行き、テキサス州南東に位 置するヒューストンを経て、アリゾナ州の州都フィネックスからカリフォ ルニア州のロサンゼルスを目指します。この旅行では20数年後の日本で目 にしたものもあれば、アメリカで行ってはいけない場所があることが判明 し、留学前に各地を自分の目で確かめられた事に、大変意義があったと思 います。 (28) 観光では国立中央首都公園へ出向き説明を受けて驚きました。高さ168メートルあるワシントン・モニュメントは36年の歳月をかけて1884年に完成され、国会議事堂はすでに5回も建てかえられており第1回目は1793年の完成でした。これだけでも技術的な先進性は充分理解しましたが、ジェファーソン・メモリアル、リンカーン・メモリアル、アーリントン・国立墓地を見学に行き、アメリカの経済力や社会制をある程度垣間見ました。特にメモリアルは、大変大きく立派な出来栄えで、まさにアメリカの力を象徴していたように思います。リンカーン・メモリアルを訪問したときゲティスバーグ演説が壁に彫ってあり、これに感動を覚えた私は演説が長方形の板に印刷された土産を買って帰りました。 この後徐々に南部に下り始めましたが、様子はいよいよ怪しくなり、店によっては有色人種立入禁止の張り紙や、防犯用に窓に鉄格子がはめられている家や店をいくつも目撃しました。また、場所によっては鉄格子のない家など皆無の所もありました。Deep south (深南部)といって奴隷がアフリカから運ばれ強制労働を強いられた地域で、当然肌で感じたのだと思います。奴隷制度は1619年から始まっており南軍が敗北する1865年まで、なんと246年間実施され廃止からわずか100年ですから異様な雰囲気があったのだと思います。次回は南部の人種的実状にもう少し触れてみましょう。又、テキサスでの出来事にも私の印象を述べてみたいと思います。 (29) 自由を剥奪することはその人種の社会性や文化、そして人間としての成長をも奪う事です。250年近くも奴隷制度がアメリカで公然と行われ、その後更に100年もの間平等や公民権が与えられず、黒人が劣等な人種と決め付ける心無き南部白人の言葉が信じられませんでしたが、中には黒人・白人との間の平等権は、北部より南部が必ず先行するという白人がその一方でいた事も事実でした。こんなに自由に自分の意見を言えるアメリカに益々興味をいだきましたが、南部に留学することには一抹の不安を抱いた事も否めませんでした。言葉についても南部なまりがあり、英語の発音の"ア"が南部では"エ"と発音していて決して誉められる耳ざわりではなかったからです。 アラバマ、ミシシッピーそしてルイジアナ深南部はどこも人種的緊張度と南部なまりがあり、テキサスも同じかと考えていましたが、ここはなんと一味違いました。まずヒューストンの観光で驚いた事は、ガイドさんが"テキサス州民はアメリカ合衆国から独立したい"と言っていたことです。印象に残った邸宅は造船王ヘンリー・カイザーの邸宅です。門構えといい、何メートルにもわたる壁といい敷地が大きすぎて邸宅が見えませんでした。ガイドによるとハワイにも邸宅があり、ペット犬の邸宅には冷房がついていて、当時ピンク色の邸宅がカイザー氏の持ち物とのことでした。なぜピンクかといえば、婦人の好みだったそうです。次回はもう少しテキサスについて書いてみましょう。 (30) この晩はヒューストン郊外にホームスティすることになり、私は湖畔に自宅のあるテキサン(テキサス人)の家にお世話になりました。テキサスも南部なまりはありましたが、民力は他の深南部州の比ではなかったように思います。さて、湖畔の邸宅にやや暗くなって到着すると、セキュリティが作動して自動車置き場は電気で照らされ誰が来たのかすぐに分かるようになっていました。当時セキュリティとはなにか知らず教えていただいたわけです。家に入ると年輪を上手に生かした別荘のような家で、本当のゆとりと落ち着きを感じました。地下へ案内されると娯楽室で軽く20畳はあったでしょう。エイトボールができるビリヤードテーブルが据え付けてありました。隣の部屋に行くと、ウインドーケースがあり狩用のライフルが10丁はあったでしょう。あと半階段おりると、湖が引いてきてあり桟橋が2本モーターボートも2艇並べてありました。豊かさは日本と比べ物になりませんでした。 (31) ロスではナッツベリーファームやディズニーランドを見学しましたが、物の豊かさや発想の豊かさは、目をみはるものばかりでした。例えばテーマパークのようなものは、近年日本でも見られますが、1965年当時からアメリカにはありました。さらに、西海岸で目にした唯一の日本製品はブリキのおもちゃ程度で、家電製品や自動車等は皆無で、状況としては今の安い中国製品が日本に輸入されているのに似ています。中部から東部に及んでは、日本製品をまったく目にしませんでした。東部へ行けば行くほど日本など知らないアメリカ人のほうが多かったように思います。豊かな国ゆえに自分たちが住んでいる地域社会にかかわる事が多く、新聞もローカル版ばかりで国際的な記事はほとんど目にしませんでした。新聞の一面に20年以上長髪を続けた男性が髪を切ったという記事には驚かされたものです。 アメリカの国旗は国中至るところで羽ばたいていて、これは明らかに多国籍国家を国旗のもとに一国としてまとめる重要な役割を果たしていたと思います。国歌が流れるとアメリカ人は直立不動になり、誰もが胸を張りまた皆右手を心臓にあてて国旗に敬意を表していることが彼らの態度ではっきりと見てとれました。 アメリカの公務員が公僕であることはかなりはっきりしていたように思います。旅行中2度パトカーにつかまりました。一度目はある町に入ったときスピードオーバーで止められましたが、即罰金ではなく理由が正当であれば許してくれるのです。このときの理由ははじめてきた町でスピード標識を見落としたというもので、注意だけですみました。二度目は大きな町で一方通行に間違って逆方向からはいると目の前にパトカーがいました。すぐおりてきた警察官は理由を聞き、状況を理解するとホテルまでサイレンをならしながら誘導してくれました。規則は規則という日本との違いにカルチャーショックを受けたものです。 (32) ロスの高速道路は片側5車線もあり、しかも朝のラッシュ時は高速道路の入路に、車が安全且つ混雑をきたさないように、センサーのついた信号機が設置されていて、一台づつハイウエーに入れるように配慮されていました。このセンサーは通常の信号機にも設置され、交通量の多い道路の通行が優先的になっていて、交通量のすくない方は車が信号機まできていったん停止すると数秒後信号が変わる仕組みになっていました。さらにセンサーの利用は仕事場にも及んでいました。社員に能率よく仕事をしてもらうために、朝一番は電気が全開でこうこうと明るくされています。日中から午後3時頃まで普通の明るさになり、3時以降はまた徐々に明るくなるようにセットされていたようです。スーパーマーケットで聞いた事ですが、一般的な事務所でも同じだと言っていました。 ロスのような観光地ではさすが資本主義の国で消費者中心とあって、おみやげ物や食べ物のバラエティーは想像をはるかにこえるほど、種類や形そして色彩にも富んでいました。ここまでアメリカを見てくると、本当にこの国と戦争をしたことが信じられませんでした。車の量も中途半端ではなく、朝夕のラッシュ時はこの5車線をもってしても、渋滞はおこりました。この時期のアメリカは国民に活力も自信もかなりあったと思います。 見るもの感じるもの総てが新鮮に映りました。こんなに変化に富んで、興味と好奇心をそそられた経験はそれまでの人生ではありませんでした。政府が指導力を発揮して一つの戦略のもとに国を導き、国民が目的を持って建国に望み社会を形成すると、希望とか生きる楽しさを教えてくれることに気づかされました。そうなるとどう考えても、もう留学しかありませんでした。またこの旅行で下見をしておく事の大切さもつくづく感じさせられました。円360=1ドルの固定相場制の時代に海外を見させてくれた両親にも深く感謝しました。 (33) この報告を受けて父は自分が横浜で所属していたライオンズクラブを通じてロンドンのライオンズクラブに連絡をとってくれました私は英国領事館訪問やらパスポートの準備をはじめました。渡英は高校3年時の春学期以降、8月の中旬と定め、同級生との卒業を断念しました。この中退は結果論ですがとても大事だったと思います。けじめをつけずに渡英ですからはじめはいけないかなとも思いましたが、中退したことで逆に留学を絶対に失敗できないという強い認識もこの時はっきりと芽生えました。海外にでかけるには大学進学をも認識した上で考えるようになっていました。大学についてはこの時点でやはりアメリカを考えていて、国際社会の中にあってリーダーシップをとり続ける強い国の印象があったからでした。大学進学は中学部特英科で教えてくださった小平幸子先生のところへ行き、彼女がもと住んでいたワシントン州をすすめられました。四季が日本と同じようにはっきりしていることの重要性もこのとき教わりました。留学準備期間中、本当に多くの方々から指導やらアドバイスをいただき、一つずつ不安が消えていったように思います。このときの経験は留学後、自分が行動しなければなにごとも始まらないことを教えてくれました。 (34) 1966年8月初旬の夏休みに湘南茅ケ崎海岸で送別会を開いてくれたクラス メートや横浜から一緒に玉川学園に毎日通っていた学友が総勢35名、羽田 に見送りにきてくれました。そのとき皆で歌ってくれた“学生歌”は、その 後30代に正規留学援助業務を取り扱う会社をはじめた頃、留学生が日本で 語学合宿を富士5湖で実施したとき毎日朝礼時に歌ってもらいました。 さて羽田では感謝の気持ちが一杯で涙、涙でしたが、こんなとき意外な方 に羽田でばったり出くわしました。アメリカに留学していた学園長小原國 芳先生の孫息子、義明さんも新学期にあわせて飛び立つため空港にきてい たのです。これは勇気百倍で、彼も異国の地で自分の道を切り開いている と思うと、いつもそのことを思い出せば負けないだろうと心に刻みまし た。いよいよ当時最先端の飛行機、マクドネルダグラス社のDC8に乗り込みアラス カを経由しヒースロー空港が最終目的地の北回りで、英国に飛び立ち ました。 (35) 最近出会い系サイトで知り合い自殺する若者のニュースを見るにつけ大変心が痛みます。なぜこんなことになるのでしょうか。アメリカを見てきて、あれほど興味と好奇心をそそられたことはなかったと書きました。日本と対比できたこともありますが、日本に生まれてアメリカには相対的に生活レベルでは及ばないものの日本がどれだけ恵まれた国か良くわかっていましたし、ましてや現在皆さんはなにも物質的に不自由しているわけではありません。精神的に不足していることは多々ありますが、でもそんなに不幸なのでしょうか。世界の現実に対してこんなに無知でいいのでしょうか。しかも自分の命まで自らが絶つ。到底理解できませんし、わがまま過ぎるのではないかと思います。 世界でどれだけ不合理がまかり通っているか皆さんご存知ですか。世界の5人に1人は1日1ドル未満で暮らしていて、7人に1人がこの地球上で餓えています。この時代になっても世界には奴隷が2,700万人もいます。インドでは4,400万人もの児童が学校に行かせてもらえず働かされています。世界人口の70%以上が電話を使用したことが無い事実をご存知ですか。これでも皆さんは本当に不幸なのでしょうか。 このような不合理を書き出せばきりがありません。まず物質的に恵まれた環境にいることに感謝の第一歩を持つことから始めましょう。そして社会に対して、はたまた世界に対して興味をいだいて下さい。そこには無限の課題があり、生きる喜びと自分が“生”を与えられ、誇りをもって生きてゆくためのヒントがぎっしり詰まっています。苦しいことは、自分が成長してゆくことの一過程であり、決して不幸なことではありません。むしろ苦しいことに気づかさせてくれていることに、感謝するべきです。なぜならそれは自分の成長が期待できるからです。ちょっと哲学じみてきましたのでこのへんでやめたいと思います。来週はいよいよ英国です!毎日が驚きばかりです。ご期待して下さい。 (36) さて、当時は日本から北周りで地球のほぼ裏側にある英国には約18時間かかりました。ヒースロー空港に到着して入国管理と税関を通過して、まずお国柄がかなり違うことに気づきました。入国にかかわる質問はいくつもありましたが、穏やかな物腰で威圧感がなく一連の質問が終わると、入国管理のオフィサーは“Good luck with your studies”と励ましてくれ、税関では”Welcome to England”といって歓迎してくれたのです。そして両管理官とも制服がなかったのも威圧感を感じなかった理由だったのだと思います。空港全体で制服は警察官だけで、警棒のみで拳銃は持ち合わせていませんでした。空港を出るとライオンズクラブ・ロンドンの会長が出迎えてくれました。ヒースロー空港から今晩の宿泊地、ロンドンの中心街にあったホテル”The Waldorf”に向かいました。ロンドンの景観は石造りの家や建物ばかりで、想像以上に威風堂々としていて、伝統を強く印象付けられました。ホテルについて更に驚いたことはホテルの外装内装に重厚感があり、あらゆるところで、伝統格式が重んじられていて、例えば濃い赤い靴が沈みそうなじゅうたん、白に近い大理石とおもわれる建物の中にうまく木造がフロントデスクや二回にあがる階段の手すりにちりばめられていて、そしてステインドグラスや立派なシャンデリアが照明の演出をいかんなく発揮していました。翌日の朝からのロンドン見物が決まり、期待に胸がわくわくし興奮気味だったことを覚えています。 (37) 反面こんなことをしていていいのだろうかと思わせる情景にも出くわしました。5-6人の労働者が道路工事をしているのですが、何の工事かわからず聞いてみると午前中に穴を掘り午後に埋めるとのことで、本当に耳を疑いました。穴には4人入っており2人が外から監視し、昼食時以外に10時と15時はかならずお茶の時間で、彼らは失業者だと説明を受けました。政府もただでは補助金を支給せず労働の対価として給料を支払うと聞きましたが、虚しくは無いのか聞いてみるとただ、”I don’t know!”と言っていました。国が変わればなんとやらで、見方を変えれば、一つの方法なのかもしれません。また当時は労働党の支配下でしたので、それも影響していたかもしれません。 他方こちらの観光で一番印象を受けたのがやはり英国博物館でした。世界中のありとあらゆる所から各国の文化・文明品が所狭しと展示されていて、国力の誇示というより他国をねじ伏せて強奪してきたと言わんばかりの印象を強くうけました。世界中で出版された本の展示物は荘厳で、一生忘れる事が出来ないでしょう。 (38) 二日目早速独自でロンドン見物に出かけました。まず地下鉄でハイドパーク(有名な公園)へ行きましたが、地下に下りるためのエスカレーターの構造が木造なのでいつ出来たのか知りたいと思いました。また、エスカレーターは延々と約40メートルは地下に続いていて、それまでそんなに長いのは見たことも乗ったこともありません。ハイドパーク駅に着き表に出てバス停のそばを通ると若者がバス乗車客の列に割り込もうとしているではありませんか。すると待合客全員が抗議をして、その中の大人二人がその若者をつまみ出したのです。若者は罵声を浴びせながら走り去りました。日本では注意すらできない大人が、こちらでは全員が抗議する勇気を持ち合わせていることに、民主主義が定着しているんだなーと感心させられたものです。 ハイドパーク内を歩き始めるとさらに今までに見たことのない光景を目にしました。それは、英国人と思われる中年の男性が木箱の上に立ち上がりなにやら演説しているのです。誰もはじめ聞く者もいませんでしたが、そのうち一人二人そして数名の人だかりが出来、熱心に聞き始めるではないですか。そして一定の時間が過ぎると今度は、見物客との派手な議論が始まったのです。当時はまだ英国英語に精通していなかったので、何の議論か分からずどうしても知りたいと思い、散歩をしていた英国の老紳士に聞いてみました。彼らは皆山高帽をかぶりモーニングを着て黒いステッキを持っていました。紳士によると今の政治について演説者が自分の意見を述べ、それに対して反論や議論をしているとの事でした。成熟している国というのが率直な気持ちでした。 (39) さて、ウェストミンスター寺院に足を運んだとき、思わぬ災難に出くわしました。イギリス人カメラマンが私の写真を撮って自宅へ送ってくれるというのです。親も喜ぶだろうと思い、お願いして住所をカメラマンの名簿帳に書き込み、いくらかかるか聞くと、1ポンドと言われ財布からお金を出して支払うと、それは撮影代だけだというのです。現像代、焼増し、送付代等等で値段をつり上げ8ポンドまであげられて、“もうたくさんだ”というとそれ以上の要求はありませんでした。日本円で言えば8,064円で高いと感じましたが、でもこれほどの誇り高き歴史をもつ国の国民が人をごまかすことはないだろうと思いつつ、これは一つ警察に聞こうと決めスコットランドヤード(ロンドンの警察署)へ出向いたのです。事情を聞いた私服刑事2人と車でウェストミンスター寺院に戻ると、カメラマンはまだそこにいて刑事2人で話に行きました。ややしばらくして刑事が帰ってきましたが、カメラマンは許可証をもっていて、私の名前がカメラマンの名簿帳にあったものの、価格は許可証がある限り自由に値をつけられるとのことでした。刑事は“何も出来ない”と言い、万一写真が親元に届かないときは次回ロンドンに帰ったときスコットランドヤードへ行けば、刑事さんが変わりに写真を撮って送ってくださるといってくれました。悔しい思いをしましたが、この時からyesとnoをはっきりさせること、財布のなかみは絶対に他人に見せないこと、何か買う前にいくら出せばいくらお釣が戻るか計算してから買うことを肝に命じました。 (40) つい先日、石原都知事がフランスの数え方は合理性がなく国際性を失う勘定の仕方であるとした。その例題として90をどのように数えるかと聞くと会場の学生から4x20+10との回答がありました。私も多少の知識があり、フランスの数え方は基本的に20までいくと20+1、となります。確かに合理性からの観点からすると問題があるかもしれませんが、でもそれだから国際性を失うというものでもないでしょう。合理性だけ追求すると円周率は3になってしまうのと同じだからです。今はまた3.14に戻したようですが、本来歴史で創り上げられてきたいかなるシステムも見直すことが時代の要請に応じて必要なことが多々あるかと思いますが、発見者や発明者がなにを根拠に一つの結論に達したのか知らなければ石原都知事の言っている事は、上辺の知識だけでは非常に危険だと思います。 本来のテーマとややかけ離れてしまいますが、同じような発言を元総理の宮沢・中曽根さんが記者会見で行っていたことを思い出します。それは両者が総理の時代、日本の就学率の高さと大学進学率の高さを記者会見で誇り、それに比べて英国の大学進学率の低さを客観的な数字を上げ、こき落ろしたのです。両前総理は英国が日本のように全国民総大学卒を考えていないと想定したことがあるでしょうか。国家の安全と国民の利益を国際関係上、本当に守れるのは真のエリートにしか出来ないことを英国政府がすでに知っていたとしたら、こんな発言をしたでしょうか。その結果、今の国際関係の悪化をマスコミを通して見ても皆さんもお分かりだと思います。 来週はまた本題にもどし、いよいよアボッツホルム学校にいざ気合を込めて乗り込みます。 (41) ユトクセターにも連れて行ってもらい、車で20分程かかり、次回からはこちらの町へ来て、バスを利用してロースターへ来るようにと指示を受けました。農業が中心のようでしたが、一応ホテルやレストランなどもあり、ショッピングもできました。ユトクセターまでの道のりは、まさに一直線だったのでその理由を聞いてみると、語尾が“クセター”の名前がつく町はローマ人が作った町で道は必ず一直線と聞かされ、今日2度目の驚きでしたが、これからまだまだ驚くことになります。 この後寮に帰り、同じ寮生になる英国人の下級生に学園内を案内してもらいました。学校は寮から徒歩約15分、舗装されてはいましたが国道よりさらに狭い、2台の車が往来できそうにもない曲がりくねった農道を進むのですが、途中校長の家が一軒あるのみで、あとは農道の両サイドにさくがはってあり、家畜、特に牛が道にでないようになっていました。また、木々がうっそうと生え、道を覆っていました。赤レンガ造りのお化け屋敷のような学校の前に来て始めて景色が開け、右を見ると延々と平野といくつもの丘が目に入りました。次回は厳しい校則について書いてみたいと思います。 (42) (43) ユニークだと思ったのが物造りを全員参加で実施させた事と、自由研究で時代を限定して芸術を勉強させたことです。物造りについては、カヌーやカヤックを手造りする者もいれば、ナイフとチーズボードを造る生徒もいました。芸術面の自由研究では、特にルネッサンスに限定され、その時代やその近辺時の彫刻家や、画家、建築家などの研究を行い、一人一人が一定の期間研究を積み重ね、クラス内で発表する事でした。私は2年間で勉強した芸術家は画家のラファエロ、カルバッチオとルーベンスでしてが、この研究はただ単に芸術に精通する目的に限らず、文化とその時代の芸術を通して知り得た知識は、芸術を見るしっかりとした基本が身に付く事だったと思います。時代の歴史的背景とその中から生まれる芸術が、国とその文化に誇りを抱かせるのだと私は信じています。 学校では、生徒に研究させるだけではなく、目の前で芸術とは何かをしっかりと体験させました。1学期10シリング支払うと、後は学校側の負担でピアニストやカルテットを学校の教会に招き、生の演奏を聞くことができたのです。ある時ピアニストのルーベンスタインがロンドンのアルバートホールで演奏することになると、学校のおんぼろバスに皆同乗して、夕食はロンドンの街頭でフィッシュアンドチップス(酢をかけた魚のフライトとポテトフライ)をほお張って一流の演奏を聞きに行きました。この経験は一生忘れる事はないでしょう。 (44) 勉強面で言えば、イギリス英語の講義が理解できず、毎晩寮長の先生に許可を得て学校の勉強部屋に10:30分まで残り、復習時間をとらせていただきました。帰りの農道には外灯がなく両サイドのさくに何回も突っ込み、目が闇にまったくなれず“暗黒”ってこのことなのだとたびたび気落ちさせられました。天候が慢性的に悪いのも気持ちが晴れない要因だったし、11月に入り自然の景色が殺風景に変化した事や、気晴らししたくても近所のロースター村は人口200人で、楽しみがなにもないのも留学をあきらめかけた原因だったと思います。 (45) 日常生活で何を変えたかといえば、気がたるむ週末は時にホームシックになることが あるので、ピアノを習い始め暇がないよう工夫しました。聖歌隊にも参加して英国人 と共に、学年末の6月上旬までにビバルディ−の“グロリヤ”が歌えるように励みま した。スポーツは結構万能だったので、2軍にいたラグビーチームで熱心に取り組ん だ結果、短期間で1軍に移され学校のリーダー的英国人数名と親しくできるように なりました。勉強面では英国英語に戸惑っていたので、英語科のヘレン先生にお願い して1対1で英語の指導をしていただけないか頼み込んだところ、ヘレン先生は喜んで 引き受けてくれたのです。また、いろいろな困難に遭遇した場合でも、“悩むほどの 時間的余裕は無い”と自分に言い聞かせ、自分で正しいと判断したことに沿って、行 動をすぐに起こすことを心がけたのです。この他では、授業の一つに形のあるものを残そ うと思い、木工の授業をとりました。 この行動を起こしたことによって、環境はガラット一変して生活し易くなったのはいうまでもありません。英国人は日本の戦後復興がわずか21年で達成していることを尊敬していました。又逆に香港からの生徒は属国あつかいで相手にしない、インド人は準属国あつかいで、差別も際立ったほどではありませんでしたが、確かに存在しました。 私はこの経験から留学する生徒は英語力を養うだけでなく、充分なオリエンテーションを受けて渡航すること、自分に閉じこもらず積極的に行動を起こすこと、そして他国で同胞と時間を過ごすのは留学の意味を半減させてしまうことを肝に銘じて留学していただきたいと願っています。香港から来ていた生徒は2人でしたが、いつも一緒で最後までイギリス人社会に溶け込めませんでした。留学成功の鍵は出来るだけ早くその国に溶け込み、自分の日常生活を築き上げることだと確信しています。 (46) このような親の息子達でしたので、彼らに日本の奇跡的復興について聞かれたり褒められたりすると、自分が日本人であることを意識せざるをえませんでした。当時ロンドン・タイムズとガーディアンは一週間にわたり紙面数ページを毎日割いて“日本の奇跡”と題して経済的発展を理論的にそして文化的分析も行っていました。さらに21世紀までにはアメリカをも抜き去るであろうという大胆な予測までしていたのです。友人達はこの記事に目を通していて、いろいろと質問してきたわけです。この経験は、勤勉で努力を惜しまなかった大正時代の大先輩に心から感謝しました。国家としての繁栄は、世界の資本主義国の間で評価されその国民が信頼されることを意味しました。このときほど日本のパスポートを持って渡航することの意味と日本人としての誇りと責任を強く感じたことはありません。 (47) 法律上の一例をあげると、酒類やタバコ類のテレビ広告は一切厳禁でした。マスメディアの中でもテレビのように見たくなくても目に飛び込む広告で、青少年の育成上好ましくない影響を与えるとして酒・タバコは禁止されていたのです。本来の民主主義とは“報道の自由”があるからといって“何でもあり”ではないと、このとき思いました。実は三年後の1969年夏、日本へ帰国したとき“イレブンPM”という番組の中で視聴率アップの手段として女性の上半身をさらしているのを見たとき、自由の取り違いもはなはだしいし、それにもまして、女性自身が男女平等を否定していると、強いショックをその時受けました。 (48) 私がもっとも感銘を受けたのは、教育者の態度でした。私が受けた授業で補習をお願いして断った先生が一人もいなかったことです。予定があった先生もいたように見受けられましたが、それでもいやな顔一つせず、こちらが理解するまで説明してくれました。生徒への教育には手抜きは一切なく、多分この経験が将来、私が留学援助業務に手を染めることになった一つのきっかけではないかと思います。学校校舎内や寮はどこを歩いてもギシギシ音がする、100年以上も経つ館ばかりでしたが、教育は立派な建物や施設ではなく、なにを使命として学校が運営され、そしてそれをどれだけ忠実に実行しているかだとこの時感じました。 (49) 新しい体験から学んだあれこれ(4) 話し辛い内容ですが、私がイギリス留学中の3年間、生徒が3名亡くなりました。一人は落下傘が開かなかったまま地上に激突。一人は学校の近所の川で大雨の後、カヌーに乗ってキャップサイズ。引っくり返ったまま立て直せませんでした。そしてもう一人は学校のエクスペディションでアイスランドへ行き、クレパスに落ちて命を落としました。いずれも教育の一環として生徒が参加したものですが、学校側は一度も訴えられませんでした。3名とも高2と高3年生であったことを付け加えておきます。判断は皆さんに委ねますが、私は結婚して息子ができたときは、同じ経験をこの学校でさせようと思いました。 (50) (101)〜(141)はこちら homeへもどる |